ある塾講師の述懐
井ノ下功
カレーの作り方
台所には人参と玉ねぎ、じゃがいも、あとは何種類かの夏野菜がある。茄子とか、とうもろこしとか。
冷蔵庫を開ければ、肉とカレーのルーがある。卵もある。
戸棚にはお菓子が一揃え。それから調味料がずらり。スパイスもある。
手元にはカレーのレシピが。
炊飯器が軽快なメロディを歌って、炊き上がりを知らせてくれた。
どこからともなく声が聞こえる。
『これからお客様が来ます。その人のことを考えて、何か一品作りなさい』
同じ状況下におかれた百人の内、たとえ九十九人がカレーを作ったとしても、カレーを作らなかった一人のことを一体誰が否定できるだろうか。
記述問題の添削をしながらそんなことを考えた。
――傍線(五)のときの主人公の気持ちを八十文字以内で説明しなさい。
誰もがカレーを作る前提で、この問題は作られている。ここまで用意してあげたんだ、もうカレーを作るほかありませんよね、と沈黙が語っている。そして私も、それを前提に指導している。カレーに対して、その子のオリジナリティを入れる分にはなんら問題ないのだ。人参を大きめにしたいなら、煮込む時間を考えよう。夏野菜のカレーにしたいなら、茄子の切り方を教えよう。隠し味にチョコレートを入れるのなら、隠れるぐらいの分量にしてあげよう。ゆで卵をトッピングしたい? いいじゃないか、だが製作時間が間に合うかな? こんな具合に。
問題は、その子がカレーを作らなかった場合だ。
肉じゃががいいと思う。ポテトサラダが好きなんだけど。オムライスじゃ駄目?
誰も『カレーを作れ』とは言っていないのだから、その自由な発想は尊重されるべきなのだ。
だが、テストはそれを許さない。受験はそれを許さない。
なぜなら、沈黙の声を聞くのもまた、試験の一環だから。
私は自己判断で丸を付けたくなった衝動を抑え込み、そっと小さなバツを付けた。
「これさ、どうしてこう思ったの?」
「えっとね……なんか……なんとなく?」
「そこをどうにか言語化してくれ……」
「んーと……えーと……あ、そうそう、あの――顔を真っ赤にして、ってあるじゃん? それがさ、怒ってるんだなぁって」
「あー、そう見えたかー。そうだよねぇ。どうしようかな……えっとねぇ、ここはさ、実は怒ってるんじゃなくてね――」
ああ、まるで万力で木の棒を曲げているみたい。
こうやって少しずつ、少しずつ、肉じゃがを作りたい子の意志を捻じ曲げて、カレーしか作れない子どもに作り替えていくのだ。
それが塾での教育なのだ――そんな風に思った。
私の解説を最後まで聞いて、バツのついた解答を書き直して、だがその子は落ち込んだ様子でも苛立っている様子でもなかった。
「……私だったらこの場面、怒っちゃうなぁ」
ぽつりと零れた小さな主張に、私は大きく頷いた。それでいい、それでいいんだ。君はどうかこの先も、肉じゃがを作り続けてくれ。こんな問題どうでもいいのだから。物語を愛する君は、君だけの解釈で物語を楽しんでくれ。どうか、どうか――
この願いを口に出すのははばかられた。
その代わりに、反吐のような応答をする。
「君が感じたことと、国語の問題で書かなきゃいけないこととは、別のものだからね」
だから、ここには嘘を書いてもいいんだ。
君は君の考えを大切に保管していていいんだ。
バツが付くからといって捨てる必要はないんだ。
でないと私のように――
「先生はどう思った?」
「私? 私はねぇ……」
――カレーしか作れない人間になってしまうから。
「秘密」
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