6. 暴漢
暗闇が途切れると同時に、視界いっぱいに広がったのは一面の青空であった。わぁ綺麗、だなんて思うより先に、レジの頭に広がったのは「死ぬ!」という警告だけで。
地面がぼやけて見えるほど高い場所から、レジはパラシュート無しのスカイダイビングに挑まされていた。もっと正しく言うのなら、空に放り込まれたと言うべきか。
「ぎぃやああぁぁぁぁぁあ!!」
情けない悲鳴をあげながら、レジは必死になって体勢を整えようとする。しかし、それが叶わないうちに、レジは地面に叩きつけられてしまった。
背中に強い衝撃を受け、肺の中の空気が全て吐き出される。しかし、それでもなお痛みは終わらず、今度はゴロゴロと転がり始めた。
ようやく回転が止まった頃には、全身傷だらけになっていた。特に酷いのは背中で、血塗れになった服の隙間から骨が見え隠れしている。
「……いっ……てぇぇぇぇぇぇ!!」
痛覚が麻痺しそうになるほどの激痛に耐えかね、レジは大声で叫んだ。街の路地裏に響き渡るような叫びだったが、それに反応するものはいない。
なんせ、レジが降り立ったこの町は、〝そういうの〟がよくある街であったからだ。
「痛い! 超いてえ!! でも生きてる!!」
うつ伏せに倒れ込んだレジは、呼吸を整えるのに必死であった。激痛を超えもはや灼熱を宿したような感覚に苛まれながらも、なんとか立ち上がる。
それから、彼はすぐに違和感を覚えた。なんとも言えない気持ち悪さが身体中に広がっていく。
「き、もぢ悪い……」
激しい目眩と吐き気に、レジは膝から崩れ落ちた。何とか立ち上がろうとするものの、足が全く動かない。腕の力だけで体を支えているが、それも時間の問題だろう。
レジは直感的にそう思った。
背中の肉が引っ張られるような感覚と同時に、どこか擽ったいような、痛いような感覚が込み上げる。それに加えて、何かが体内からせり上がってくるような、そんな気さえしてきた。
「吐き、そう……」
口元を抑えたレジは、そう呟くと、そのまま嘔吐した。ビチャッと嫌な音がして、吐瀉物が路地裏にぶちまけられた。
吐いても吐いても不快感は消えず、それどころか更に増していった。胃液しか出なくなったところで、レジはやっと落ち着きを取り戻した。
「何なんだよ、おえぇ……」
口の中に残った酸っぱさに顔を歪めながら、レジは立ち上がった。未だに目眩と吐き気は治らないが、歩けない程ではない。
とにかくこの場所から動こうと思ったレジは、よろめきながら歩き出した。一歩踏み出す度に、背中に走る鈍い痛みが……
……ない。痛みが、一切存在しないのだ。
「あれ、何で……」
思わず背中に手を伸ばして確認する。服は破けているし、出血したからか赤く濡れている。
しかし、どういうことだろうか。傷に関してはすっかり塞がり、まるで最初からなかったかのように綺麗さっぱりとなくなっているのだ。レジは混乱していた。一体どうなっているのか、全く理解出来なかった。
「……まさか、人間じゃなくなったから?」
ふと思い付いたのは、そんなことだった。
いやいや有り得ないだろと自分で否定するも、それ以外に理由が思い浮かばない。
あんなに高い所から落ちたのにも関わらず怪我だけで済んだ上に、その怪我まで一瞬のうちに完治してしまうなど、そんなのまるで……
そこまで考えて、レジは考えるのをやめた。これ以上考えていても意味がないと思ったからだ。それよりも、今はもっと大事なことがあるだろう。
そう、チェルカトーレから頼まれたお使いだ。
「ハルニゲス、だっけ」
魔力変換装置であるらしいそれは、どんな形をしているのか分からない。紙に書かれていたのは「30cm程の大きさ。現在地、サルヴァドールのどこか」というなんとも曖昧極まりない情報だけだった。
なんとも面倒くさい仕事を押し付けられたと、レジは頭を抱えた。そもそも、サルヴァドールとやらがどこにあるのかさえレジは知らないのだ。
「……交番で聞けば教えてもらえるかなぁ」
そんなことをボヤキながら、レジは路地裏を後にした。
大通りに出てからレジがまず驚いたことは、道行く人々を覆い隠すようにまとわりつく色の着いた煙のようなナニカが視界に入ったことだ。
それらは一見するとただの靄に見えるが、よく目を凝らすとその奥には色鮮やかな何かが見え隠れしていた。鮮やかな色彩を纏ったそれらは、人々に染み込むようにして溶け込んでおり、完全に同化している。
そんな光景を目の当たりにして、レジは息を飲んだ。ここは本当に現実なのか? 俺は夢でも見ているのではないか。レジがそう思ってしまうのも無理はない。なんせ、それだけの異常が通常になってしまっているのだから。
「嫌な副作用ばっかりだな……」
チェルカトーレ曰く「便利で都合のいいもの」であるらしい星命術は、レジからすれば「凄いんだろうけど何かよく分からないもの」でしかない。脳内に「その視界にも慣れろよー」というチェルカトーレの声が響いたような気がしたが、レジはわざと無視することにした。
レジは改めて、自分がこれからやらなければならないことを思い出す。
ハルニゲスを見つけ出し、持ち帰る。それがレジに与えられた任務であり、最優先事項だった。しかし、こんな状態でそれが果たせるのかどうか不安になる。それでも、レジはやるしかなかった。それがチェルカトーレの命令なのだから。
(あの人、何か怖いし!)
レジの心の中では、恐怖心の方が勝っていた。レジがチェルカトーレに抱いているイメージは、一言で表すならば魔王だ。彼の中で、チェルカトーレという存在はそういう位置づけになっていた。今のレジに選択肢は無いに等しい。やれと言われたらやるしかない。
(一応命の恩人ではあるし…………いやでも俺が死んだのってそもそもあの人のせいなんじゃ?)
そんなことを心の中でウダウダと考えていた時、レジは肩に強い衝撃を感じてよろめいた。
「うわっ」
「いっっってええぇぇ! あー、骨折れちゃったなーこれ!」
耳元で大声で叫ばれて、レジは反射的に顔をしかめた。それからすぐに、自分にぶつかったのが大柄の男であることを理解する。男は、折れたという右腕を押さえて喚いていた。
なんとも迷惑な男だと、レジは思った。当たられたのはこちらだというのに、なぜ怒鳴られなければいけないのか。
「えっと……ごめんなさい?」
「謝って済むもんじゃねぇだろ!? 治療費払ってもらおうか!!」
「はぁ……」
レジは困惑していた。こういう場合、普通なら金を払うなりしてその場を収めるべきなのだろう。しかし、生憎レジは金を持っていない。
「えぇと……お金持ってなくて」
「ふざけんなよテメェ!! こっちは骨が折れてんだぞ!!」
「そんなこと言われても……」
困り果てたレジは、助けを求めるように辺りを見渡した。しかし、世は無情だ。厄介事だと分かっているものに、わざわざ首を突っ込むような物好きはいない。皆、見て見ぬふりをして足早に通り過ぎていく。
「おい、聞いてんのかクソガキ!!」
「うるさっ……」
耳をつんざく程の怒声に、思わず顔を歪める。そして、怒りが沸々と湧き上がってきた。元はと言えば、この男がいきなりぶつかってきたことが原因ではないか。どうして自分ばかり責められるのか。
「あのですね、あなたが勝手にぶつかって勝手に怪我しただけじゃないですか。僕悪くないですよね?」
「はぁ? 何言ってんだよお前。意味わからんこと言い訳にして逃げようとしてんだろ?」
「いやいやいやいや。ていうかそもそも貴方、腕折れてないでしょ。みっともないですよ」
「こんの……舐めてんのかテメェ!!!」
男の額に青筋が浮かび上がる。それを見て、レジは内心「やってしまった」と思った。だが、もう遅い。レジの胸ぐらを掴んだ男は、そのままレジを思い切り殴り飛ばした。
「っ……いった……」
地面に倒れ込んだレジは、殴られた箇所を抑えながらゆっくりと立ち上がった。口の中に血の味が広がる。どうやら切れてしまったようだ。
「大人しく金を寄越せば許してやったのによぉ。馬鹿なことするからこうなるんだぜ」
ニヤリと笑みを浮かべる男の顔が、レジの目に映った。馬鹿にしている、見下している、そんな表情だ。レジは、何も言えなかった。反論したところで、無駄に終わるだけだと分かっていたから。
だからといって、このまま黙っているわけにはいかない。レジは、必死になって頭を働かせた。どうにかして逃げる方法はないかと。
しかし、そんな都合の良い方法がそう簡単に見つかるはずもなく、結局レジは何も出来ずにいた。
「離せ、よっ!」
「ああ?なんだって?」
レジが掴まれた手を振り払うと、今度は思いきり腹を蹴飛ばされた。鈍い痛みが腹部を襲う。あまりの痛さに、レジはその場にうずくまった。
「__ッ!」
「ははっ! ざまぁねえな!!」
笑い声が響く中、レジは悔しくて涙が出そうになった。何故こんな理不尽な目にあっているのだろうか。不幸体質であることは理解していたが、まさかここまでとは思ってもみなかった。
通行人はやり取りを横目で見ては、足早に去っていく。助けてくれる者などいない。誰も、レジに手を差し伸べようとはしない。
「金がねぇなら、その命で支払ってもらうからな!」
男が腕を振り上げる。レジは諦めたように、強く目を瞑った。
(俺はまた死ぬのか)
走馬灯のように脳裏に浮かんでくるのは、これまでの思い出だった。生まれてから今までの記憶が、まるでビデオテープでも見ているかのように再生されていく。と言っても、その映像は穴ボコだらけの酷いものだったのだが。
レジは、心のどこかで死を受け入れていた。自分がここで死んでしまったとしても、それは仕方の無いことなのだと。
____本当に?
本当に、それでいいのだろうか。
今更後悔しても、もう遅い。それでも、何か出来ることがあるはずだ。レジは考えた。考えて、考え抜いた結果、ある一つの答えに至った。
(星命術を使えば……)
レジはそっと右手を握りしめた。しかし、すぐにその手を緩めて苦笑した。
無理だ。自分には、出来ない。レジは思った。自分は弱い。こんな力を持っていたところで、使いこなせるとは思えない。それに、上手く使えなければ意味が無いのだ。結局は、宝の持ち腐れである。
(やっぱり、俺は駄目なんだ)
レジは俯いて、自嘲気味に笑う。自分は臆病で無力な人間だと、とうの昔から知っていた。見ないふりをしていただけで、本当はずっと前から気づいていた。
「死ね、クソガキ」
男の腕が振り下ろされ____
「道のど真ん中でよくもまぁこんな事が出来るな」
____る事はなかった。
紫の目が特徴の黒髪の男が、振り下ろされた腕を受け止めていたのだ。
「あぁ? 誰だよテメェ」
「ただの通りすがりさ」
男の言葉に、彼は平然と答える。それから黒髪の男は、チラりとレジの方を見た。
「大丈夫か?」
「え……」
突然声を掛けられて戸惑うレジだったが、何とか返事をすることが出来た。
「は、はい。なんとか……」
「なら良かった」
黒髪の男は無表情のまま呟くと、掴んでいた腕を思い切り捻り上げた。そして、次の瞬間には男の身体が宙に舞っていた。
「ぐあっ!?」
男は受け身を取る暇も無く地面に叩きつけられ、そのまま気絶してしまった。それを見ていたレジは唖然として固まっている。あまりにも一瞬の出来事だったため、頭が追いついていないようだ。
「怪我は?」
「えっ、ああ……無いですけど……」
「なら良かった。立てるか?」
差し出された手を取り、レジは立ち上がった。そして、目の前にいる男の顔をまじまじと見つめる。
アメジストの瞳に、整った顔立ち。身長はレジよりも高く、体格は細身だがしっかりと筋肉がついている。全体的に落ち着いた雰囲気があり、何処か不思議なオーラを放っているように見えた。
そんな彼を覆っているのは、星空。
「あの……ありがとうございました」
「気にするな。それより、君……」
彼はそこで言葉を切ると、レジの顔をじっと見つめた。不思議そうな様子で首を傾げるレジを見て、彼は何かを言いかけた口を閉じた。
「……いや、なんでもない」
そう言う彼の目からは、先程まであったはずの光が消え失せてしまっていた。レジはその事に気づくことなく、頭を下げてその場から走り去った。
その後ろ姿を見送ってから、彼は小さくため息をつく。その表情はどこか訝しげなものであった。
「……こちらグリフィン。リリッカ、調査を頼みたい」
ポケットから取り出した通信機を耳に当てながら、彼は路地裏へと入っていく。
レジを助けた男の名は、グリフィン。
歪な運命の歯車が、今回り始めた。
スターリング・アナザー・ヒューマンズ 白白 椎 @Chap_star22
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