二度目の選択②

【自分が死んだら周りの者は幸せになると思う】


 そんな項目を目で追いかけ、それがどういう意味か理解した瞬間、心理テスト用紙の上に涙が落ちた。ぼたぼた。汚い。すぐに袖で拭う。汚い。


 自分が死んだら周りの者は幸せになると思う──○。


 なんだこのテスト、患者の心えぐってくるじゃん。そう思った時、私の脳内に先ほど浴びせられたお母さんの声が響いてきた。


『あんた、おかしいよ。病院にでも行ってきたら』


 そう言うと、私の財布から一万円札を抜き取って私を部屋から追い出した。夕飯の煮物を作ったから持ってきてあげたのに、その仕打ちか。

 だからその足で病院に来た。ていうか、その一万円は病院に行くために取っといたんですけど。まぁそんなこと言えるわけなくて、電車賃と残っていた小銭とバイト代をかき集めて診察代を払った。診察はなんというか毒にも薬にもならない無味な時間だった。言いたいことの半分も言えなかった。何がつらいのかわからないんだからさっさと私に病名をぶん投げて放り出してくれりゃ良かったのに。お母さんに会うのやめたほうがいいですよー、関わっちゃだめよー、今はあなたの体をしっかり治しましょうねーって。それができたら苦労しないんですけど。お母さんあのひと、定期的に呼び出すから行かなきゃだし。行かなかったら行かなかったで私の家に来てずっと喚くし。


 私はマスクの下で歯を食いしばるだけだった。見られなくて良かったなと心底思う。

 コロナ禍ももう丸二年続けば慣れてしまうけれど、思いきり仕事ができないのは正直きつかった。飲食店の裏方をやっているが、働き先の店がことごとく休業したり閉店したりととにかくツイてない。高校を出てすぐコロナ禍になり雇ってくれるところがそもそもなく、やっと掴んだ仕事もあぶくとなって消えていく。そんな私にお母さんは「役立たず」と罵り、嘲る。自分は生活保護の金で生活してるくせに、その金も湯水のように使って私の金をもむしり取る。そんな母親でも一応、高校まで出してくれたから今はその恩を返さなきゃいけないのだけれど……それにしても疲れるな。

「そのお金は使わないで」って言ったら「あんた、おかしいよ」と言ってきた。そこで私の中の何かがぷつんと切れてしまったのだと思う。気がついたら、前から目をつけていた心療内科に駆け込んでいた。まるで追い剥ぎにでもあったかのようにやってきた野暮ったい女に対し受付スタッフは怪訝そうな顔を隠しもしない。


 そうしていろんなことを頭の中でぐるぐる巡らせながら家に帰る途中、私は不思議な店に行きあった。

 うらめしいほど陽気な春。陽が落ちても服の中が暑いのに、上着を脱いだら肌寒いはっきりしない季節。眩しい金色の光が建物の隙間から差し込んできて、思わず顔を背ける。その時、アパートとアパートの隙間にぽつんと建つ古びた外観の扉に目がいった。ちょうど陽の光がドアの小窓に当たっていて、そこから放つ七色の光がチカチカ点滅する。ドアの上には看板らしきものがあるけれど、ツタに巻き付かれていてよくわからない。屋根の上にはカラスが一羽、私をじっと見つめている。かぁとひとつ鳴いて翼をバサバサはためかせると陽の中へ吸い込まれるように飛んでいった。

 一方、私は陽が当たるドアの前に立つ。ノブを回して中を覗くと、無数の時計が壁や天井一面にかけられていてその光景に圧倒された。思わず仰け反って息を止めてしまう。時計の針はそんな私をからかうようにカチカチ音を鳴らして進んでいく。


「いらっしゃいませ」


 空間の奥から男の深い声がコーヒーの香りとともに私の元へ届いた。


「あ、すみません……」


 私はボソボソと謝った。


「いえいえ。滅多に人が通らない場所にあるので、あまりお客様がいらっしゃらないのですが、ここへ迷い込んだあなたはきっと現世で迷っているのでしょうね」

「現世……?」

「ここに辿り着いたということはそういう運命だったのですよ」


 出会い頭に不可解なことを言う男だ。見た目は三十代くらい。日本人? 目の色がちょっと日本人ぽくない。何色かと言われたら答えられないけど。そして、このご時世にノーマスク。メガネとヒゲ、大きめな水色のシャツと工房用なのかこれも大きな生成り色のエプロン。冴えない人だが、微笑みはとても優しい。その笑顔は心療内科で会った先生よりも温かみがあって、私はなんだか泣けてしまった。その場でしゃがむと、男が慌てて駆け寄ってきた。


「大丈夫ですか?」

「はい……すみません」

「相当お疲れのようですね」

「はい、すみません」


 私は顔を俯けた。一方で男は私を肘掛け椅子に座らせた。自分も向かいにある椅子に座り、私たちは自然とテーブルを挟む。重厚な真紅のテーブルクロスがかけられていて、そう言えば内装もどこか古びていてアンティークショップを思わせる。時計の秒針がとてもうるさいし、埃っぽいものだから汚い印象を持ってしまいがちだが、好きな人は好きな店のように思う。


「この店は『時屋タソガレ』という看板を出しております」

「時屋……タソガレ?」

「見えませんでした? ドアの上にあるはずなんですが……もしや、また硝子のせいで見えなかったのかもしれませんね」


 彼は困ったように顔をしかめた。私は首を傾げた。


「あぁ、硝子というのはうちに入り浸っている神様です。烏丸硝子という名前で、性別や姿形を持たない。どんな姿で現れるかは硝子次第なわけですが、そのうち出てくるでしょう。放っておいて結構ですよ」

「はぁ」


 説明されても一切の要領を得なかった。そんな私を置き去りにしたまま、彼は「それでは当店のご説明をさせていただきますね」と言って咳払いし、店の説明を始めた。


 この店では「時」を取り扱っておりまして、あなたが生涯で使う時間とは別の「時」をご購入いただけます。過去や未来に行って運命を変えることも、あなた自身の時間や他人の時間を増やすことも縮めることもできる。ただし、上限は二十四時間まで──と。


「だいたいのお客様は丸ごと二十四時間分買われる方が多いですね……ごくたまに五分とか十分とか、二十二分二十二秒を買うお客様もいらっしゃいます。何に使っているのでしょうね」

「まさか、冗談でしょ」

「あー、まぁ確かに信じがたいとは思いますが、本当に買えるんですよ」


 時を買う……しかもそれは、この人の話が本当なら私に二十四時間与えられるってこと。本当にそんなことが可能なのだろうか。あまりにも現世がつらすぎて見ている妄想なのではないか。まぁ、それでもいいか。


「お客様は例えば、戻りたい過去なんかあります? 未来でも結構ですよ。だいたいのお客様は過去か未来のタイムトラベルに使っていますし」


 彼の言葉に、私は深く考えた。

 戻りたい過去……戻ってもろくな過去がない。でも、未来もきっとろくなものじゃない。どっちに転んでも私は悲惨だろう。あぁ、それなら──


「ある。過去に戻りたい、です」


 私はたどたどしく答えた。すると、目の前の男が少し前かがみになって私の顔を覗き込んだ。


「過去ですか」

「はい。過去に戻りたいです……時、本当に買えますか?」

「えぇ」

「おいくらですか」


 私はなぜか前のめりに訊いていた。こんなバカバカしいことに付き合わされて怒るべきなのに、期待が膨らむのも無理はなかった。それくらい追い詰められている。


「一秒につき一円いただきます」


 なんと良心的なお値段。


「買います、二十四時間分」

「では、八万六千四百円いただきます。分割払いでも大丈夫ですよ」


 そう言って、彼は私に手を差し出してきた。分割でも現金払いらしい。

 私はすぐさま財布を引っ張り出すも金がないことに気がついた。


「……すみません。買えません。お金がなくて」

「おや、そうですか。残念です……」

「後払いとかってできますか?」


 ダメ元で訊くと、男はわずかに眉をひそめた。やっぱりダメか。そりゃそうだな。こんな怪しげな店でも金はきっちりとるんだよな。それが普通だけど。むしろぼったくられないだけいい。

 諦めたその時、彼は小さくため息をついた。


「今回は特別ですよ。ちゃんとお支払いしてくださいね」


 そう仕方なさそうに笑う。私は思わず彼の手を握った。


「……ありがとうございます!」



 時屋タソガレの店主──陣名じんな直臣なおみが私の時を戻す。

 彼が操作するのは時計の針で、きっかり一日分のゼンマイを巻く。そして、おもちゃのような時計の文字盤に私が戻りたい日にちを書いた。

 戻るとしたらあの日だ。中学の球技大会の日。あの日は私の中で最悪な人生が始まる序章だった。


「タイムトラベルは私の手で行います。また、過去の世界で二十四時間経てば、あなたの意識は自動的に現世へ戻ってきます。それまでは思う存分、過去で運命を切り拓いてください──それでは、良い旅を」


 静かな声がこだますと同時に、目の前が昏くなった。

 それは私の脳みそを掻き回すような感覚。でも不快じゃなく、むしろ蕩けそうに気持ちいいものだった。意識が時間の波に飲み込まれていく。砂の中に埋もれるように、深く深く。

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