ふさわしい女
恋をした娘がいた。
神父見習いに恋をした彼女は、彼に顔を覚えていてもらおうと、あるいは、もしかしたら自分の恋心に気づいてくれるかもしれないと思い、ひたすら社会実習中の彼のところに通い、彼が嬉しがりそうな話を振った。
けれども、彼は楽しそうに娘と話すけれども、実習期間が終わると、呆気なく神学校に帰ってしまった。
娘はごく平均的な家庭の生まれである。正月を祝ってお守りを買い、盆と彼岸には遠出して、ハロウィンはカボチャスイーツを満喫し、クリスマスは友達とパーティをし、年の瀬はお笑い番組を見て、日付が変われば、名前も知らない寺の鐘の音を聞く。
そんな娘にとって、「クリスマスに生涯を捧げるための学校」というのは、特に奇妙であった。もっと言うなら、彼がそのような考え方の持ち主であると言うことすら知らなかった。
高校の進路の時、進学しないと言うので、どういう企業に就職するのか聞いた。彼は、
「神学校に行くんだ。まあ、専門学校みたいなものだよ。完全寮住まいだから、皆と会うのは、卒業してからだな。」
忙しいだけかと、娘は何度か連絡を試みたが、ダメだった。女性の教職員は何度か見かけたが、女人禁制らしい。変なフェミニズムにひっかかりそうだな、と、思いながらも、娘は彼がなりたがっているという神父について勉強した。
よく分からないけれども、聖書の話をして、ザビエルの真似事をするらしい。
そして、女の自分は、神父になれない、絶対に相応の女性職にもなれない、と聞いたので、ひたすら彼と同じ勉強をすることにした。
神父がどこに派遣されるのか分からないので、彼女は近所の教会を渡り歩いた。彼らは聖書を学ぶための講座に、金銭は要求しなかったが、教会に来る度に、沢山のご馳走が出た。流石に忍びなかったので、娘は自分も、十人はゆうに食べられそうな菓子やおかずを買ったり作ったりして持っていった。
平日は会社員として働き、土曜日は料理を仕込み、日曜日は少しの勉強とおしゃべりに身を費やす。
しかし、娘がイマイチしっくりこないと、老婦人たちは娘を無視するようになった。それで、娘は教会を変えた。
そんなことを何十回としていると、娘の家にはどんどん聖書が増え、住所を記入した過去の教会からクリスマスのハガキが届き、残ったものは、「キリストというのは、苗字じゃない」「死んでくださってとてもありがたいイエスさま。その理由は、私達が本来地獄に堕ちるはずだったから」という、実に娘の人生に実りのない情報ばかりであった。多額の材料費のために、あるいは交通費のために、貯金が出来なかったので、娘は空虚な心を埋めるためにも、どんどん教会を変えた。読みもしない聖書が積み重なり、読みもしない教会報が溜まり、家はかみだらけで、よく虫が湧いたし、結露の時期はカビも生えた。
そうして、娘は彼を六年追い求め続けた。たまたま風の噂で知ったのだが、彼はもう一人前になり、「神との結婚」を済ませたのだという。
「結婚」というのは、生涯独身を貫く表現なのかと思ったが、神学生にとって神父になる儀式というのは、「結婚式に相当するハレの日」だということを知った。
娘の想いも努力も、遂に彼には届かず、また、娘の心に信仰が芽生えることもなかった。
何故なら、神父になった三ヶ月後、彼は道端で血を吐いて倒れているのを見つけられ、死亡したからだ。原因は過労だという。
彼の勤め先の教会を見つけ、三十年ぶりに出されたという一番高い最新の聖書を買ったばかりだった。
悲しみにくれる娘は、自分の家が非常に虚しくなり、引きこもりならぬ、外こもりになった。
聖書は結局、ほとんど読まなかったし、覚えていない。それでも、この「協会共同訳聖書」なるものは、一ページも開かなかった。神父になった彼の講座で、開きたかったからだ。
家にある、大量のかみの中に、彼の痕跡は何もない。彼がどうして神父になったのかすら、具体的には分からなかった。
神父には、「神に選ばれる」ことで成れるのだという。立派な教養、豊富な人生経験、周りを和ませる人格、それら全てを兼ね備えても神父になれないことはままあり、それら全てを兼ね備えていないのに神父になることもままあるのだという。
娘が、彼に近づこうとして勉強していた六年間は、実に無駄な事だったのだということを、本当に思い知らされた。
「ほい。」
「?」
紅葉を「外こもり」で眺めていると、突然知らない男が紙袋を差し出した。
「お前にやる。形見分けだ。」
目の前の男が誰かはどうでも良かった。直ぐにそれが、彼の物だと分かったからだ。
お礼もそこそこに中を見ると、小さくてボロボロの、恐らく聖書だと思われるものと、一枚のカードが入っていた。彼の名前と、「叙任記念」と書いてある。聖書を開いてみると、発行されたのは、自分たちと同じ年で、赤や黄色、青や黒で、沢山の傍線やラインマーカーが引かれていた。
このビビットで、茶色く変色し、凸凹になった数だけ、彼はこれを読んだのだろう。自分の数だけの、真っ白な聖書とは全く違う。
これができる人が、彼にふさわしい女なんだ。
それを見せつけられた気がして、娘は涙を流した。
そして、男は娘が持っていた協会共同訳聖書を指さし、言った。
「それ、未開封だろ? 返品しちまいな。」
「え…。」
「金、無いんだろ? 家にある聖書も全部「書き込みあり」で、フリマにでも売ってやれ。教会報は、教会ごとにまとめて、順番にして、「痛みあり」で売るといい。マニアや研究者が、資料として買う。」
「でも、あれは神様からのラブレターだって…。」
「お前、そんなヤツからのラブレターなんか欲しくなかったろ? 邪魔なんだから金に変えて、家に帰ってコタツに入りな。今世界情勢的に、電気代高くなってるんだろ? 足しになるはずだ。」
「で、でも…あれは…。」
「本当のラブレターは、そのカードの方だ。裏、見てみ。」
ぺら、と、巡って、娘は形見の聖書が汚れるにも関わらず、大声で泣いた。
「あいつが、六年三ヶ月かけて、お前に当てた、フレグランスレターだ。たった一人、お前にそれを伝えるためだけに、神はお前から、あいつを六年三ヶ月取り上げた、とでも言うべきかな。いずれにしても、あいつが本来の仕事を成し遂げられたのは、お前だけだ。ずっと顔を合わせず、連絡もせずにいた、お前にだけ、あいつは本来の仕事をすることが出来た。」
「自分の恋にあって誇れ。お前は、あいつにふさわしい女だと、あいつ自身が命をかけて証明した。」
気がついた時、男はいなかった。よく見てみると、ペラ紙が入っている。「追悼ミサ」なるものがあるらしいが、自分には必要なさそうだ。娘は、売ってしまえと言われた聖書を胸に抱き、お前のものだと言われた聖書を手に下げて、家に帰った。
そして、全てのかみを売り払い、ホームクリーニングをしてもらって、教会には嘘の転居報告をし、全く、教会から縁を切った。
今、娘には殆どの教会の思い出は残っていない。
ただ、娘には、もっともふさわしい、かみのみことばが与えられた。
六年間と三ヶ月かけて、彼が娘に当てた、最初で最後のラブレターだ。それは、娘が追い求めていたどんな幻想よりも、現実的なものだったので、終ぞ娘は、教会には戻らず。
カードケースに入れて、その叙任記念のカードを、いつでも持ち歩いている。
📖
わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。
―――詩篇139:8
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます