4話 別れを告げる彼女
理科室は旧校舎の一階にあった。新校舎が出来てから旧校舎は主に部活動と特別授業で使用するようになったせいか、昼休みのこの時刻は生徒の数もまばらだ。
隣を歩く木崎は無言で、俺も話しかけることはしなかった。
ちらりと木崎の様子を伺う。
大人しく、言葉数も少ないがやはり顔立ちは恐ろしく整っていると思う。教室では賑やかな奴らで隠れがちだが、こうして一対一になるとよく分かる。
普通じゃない、と。
・・・・・・一条蓮花を知らない人間なら気づけないかもだが、間近で見続けてきた身としては彼女自身から滲み出るそれを確認できる。
遠くに聞こえる生徒の声と反響する床の音。俺はごくりと唾を飲み込み、理科室のドアに手をかける。
部屋の中に足を踏み入れると微かに香る薬品の匂いが鼻に入ってくる。器具を洗うシンクと薬品が納められた棚。大きめな机と丸椅子が並ぶ部屋の中を見渡す。
すると教室のドアが閉められ、ガチャリと施錠された音が聞こえた。
何となく予感はしていた。俺は振り向かずに彼女に話しかける。
「・・・・・・木崎。鍵はしめなくてもいいんじゃないか?」
「貴方のせいでしょ? 全く」
振り返ると木崎は溜息を吐き、俺を睨みつけてきた。教室で見せる木崎のイメージが音を立てて剥がれていく。
「もう少し悩んでいるかと思ったけど、普通に接してくるし。ああ、そういう態度で接してくるのかとがっかりしていたら、不意に昔のことを言い出すし。ねぇ、それってわざと?」
問いかける言葉に俺は口を開き、閉ざす。
「私は言ったと思うけど、貴方のことは許していないわ。でも恨んではいない。あのとき、貴方が私の想いに応えていたら、貴方も私もきっと酷いことになっていた。マスコミにとって天才子役とマネージャーのスキャンダルはご馳走だもの」
非憎げに笑う木崎の表情は恐ろしくも、美しかった。だが言っていることは全く笑えないほどに冷たい。
もし彼女の言うとおり想いに応えていたら俺は教師などできていないし、木崎もこうして普通でいられないだろう。
木崎はだんまりの俺に近づいてくる。
「だから恨んでいない。でも、許していない。貴方のことも、私自身のこともね」
「え?」
「だってそうでしょ? あれだけ好きだ好きだ好きだ、と思っていたのに一年顔を合わせて気づけなかった。そして、貴方も気づいてくれなかった」
「っ! それは、本当にすまなかった」
心が抉られる気分だ。確かに木崎から言われるまで俺は木崎が一条蓮花だと気づくことができなかった。
あれほど気がかりだったのに。大切だと思っていたのに、だ。
「本当にすまなかった」
俺は頭を下げた。謝って許されるわけがない。謝って自分だけが楽になるつもりはない。
罵倒されると思ったのだが、返ってきた声は凄く落ち着いている。
「・・・・・・頭をあげて。教師が生徒に頭を下げるとか、誰かに見られたらどうするのよ」
「え? 俺は別に構わないけど」
「そ、う、い、う、と、こ、ろ。全く変わっていないわね。貴方」
溜息が聞こえ、顔を上げると木崎はこめかみに指で揉んで、椅子に座った。
「傲慢な自己犠牲野郎。それが貴方なのよ、大谷先生」
「ご、傲慢な自己犠牲野郎?」
「そ。貴方がマネージャーで私の側にいたときはすごく頼りになって、まるで私自身が世界の中心になったような感覚もあったわ。でも、今ならよく分かる。貴方は自ら舞台に絶対に上がらない。その他大勢に徹しようとする、すごくずるい人」
「そんなことは」
「あるわ。一年間、貴方の正体に気づかないで過ごしてきたけど、思い返せば貴方らしい言動ばかりだったし」
思わぬ指摘に俺は面食らってしまう。こうしている間にも木崎は俺の行動を挙げていき、饒舌になっていく。
そういえば昔もこうだったな、と思う。
輝かしい世界で活躍する一条蓮花は大人しくも心の強い少女という印象だったが、一歩スポットライトから離れると年相応な表情の少女だった。
懐かしい気持ちと、俺が知っている物静かな木崎とのギャップに俺は吹き出してしまう。
怪訝な目で見てくる木崎に謝ると木崎は深い溜息を吐く。
「何よ」
「いや、悪い」
「簡単に謝らないで。言葉が軽くなるわよ?」
「注意することにする」
「貴方も、本当に変わらないわね・・・・・・でも、そこに惹かれていたのよ、私は」
「え?」
「何でもない」
ぼそっと呟かれた言葉を木崎は濁し、咳払いをした。
「貴方の中でそれなりに私という存在が残っているのは確認できたし、答え合わせよ。大谷先生、あのキスは何のキスだったと思う?」
顔が熱くなる。木崎は自らの唇を人差し指でなぞり、俺に思い出させるように問いかけてくる。
年甲斐もなく情けないとは思う。俺は肩を揉みながら、俺なりの答えを言う。
「別れのキス、だと思っていた」
「別れ」
反芻する言葉に木崎の感情は読み取れない。ただ決して浅い関係ではなかったからこそ分かる。間違ってはいないと。だって彼女の瞳が不安げに揺れているのだから。
「ああ・・・・・・俺は君に酷いことをした。絶対に許されないことを、君を傷つけた。だからその、あのキスで関係を断ち切るという意思表示かと思っていた」
「なるほど。半分正解で、半分間違いね」
「半分は合っているのか?」
「ええ。あのキスは子供の私が貴方にしたかったキス。子供臭い憧れとか、恋する気持ちを全部詰め込んだくそ重ったいキスよ。いつまでも私の中で置いておくのも面倒くさかったしね」
「木崎・・・・・・」
「で? 一応、答えを聞かせてくれるのかしら」
「好きだった。ああ、俺も当時は君のことを好きだったと思う」
「だった、か。ふふ、ははは。相変わらず、貴方はずるいわね。でも、そうか。ようやく貴方の口から絞り出せたわけだ。なら私の初キスにはそれなりに価値があったわけね」
我ながらずるい言い方だと思った。
心の奥底にしまい込んだ感情の正体は、きっと褒められたものじゃない。
当時はマネージャーとして一条蓮花をフォローすることを第一に考えていた。彼女がより活躍できるように、彼女が抱える負担を減らすように。
より多くの人に一条蓮花を知ってもらおうと。それに応えようとする一条蓮花の姿を見て、俺はきっと年の離れた妹のように感じていたのかもしれない。
そう。仕事以上の関係ではあった。だからこそあの告白を受けたとき、俺は逃げたのだ。
でもこうして再び現れた彼女を見て、俺はきっと一条蓮花に恋をしていたのだと思ったのだ。
世界で一番、大切な存在だと思っていた。離れたからこそ分かる。
ケラケラ笑うと木崎は俺を見る。
「大丈夫よ、そんな辛そうな顔をしなくて。ええ、大丈夫。ようやく供養できたわ。これで、私も区切りをつけることができる」
木崎は一歩、後ずさりして膝丈のスカートが揺れた。
そこにいるのはいつも教室で見かける目立たない生徒だった。
「ここからは教師と生徒。大谷先生と木崎胡桃。それ以上でも、それ以下でもない。それでいいでしょうか? 大谷先生?」
落ち着いた声色だ。騒がしい教室では聞き逃してしまいそうなほど。
俺は口を開きかけて、やめる。
言葉は野暮だ。
コクリ、と頷く俺の仕草を木崎はまじまじと見つめていた。俺の動きを見逃さないように、視線が絡み合う。
「分かりました。じゃあ、私はこれで失礼します。大谷先生、お手伝いありがとうございます」
トントン、をつま先で靴を整え、くるりと背中を見せた木崎は教室から出て行こうとする。
過去の清算は終わった。何も気にする必要はないはずだ。ここで俺が彼女の想いに応えるのは余りにも、あまりのも彼女に失礼だ。
ガララ、と扉を開けて去ろうとする後ろ姿を見てーーーー気づく。
木崎胡桃の仮面の下で、違和感があったのを。
微笑を浮かべる少女。あの天才子役一条蓮花を一番近くで見続けてきたからこそ、分かってしまう。
あの仕草。あえて言わなかった特に見せるあの顔。
だから俺は呼び止めてしまうのだ。
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