3話 来訪する彼女
木崎胡桃が一条蓮花だと知った夜は一睡もできなかった。
色々起きすぎて整理がつかなかったという気持ちもあるが、どちらかというと不甲斐なさで一杯だった。
そもそも今のクラスを受け持って一年。この学校は三年間クラス替えをしない方針なので、俺は木崎胡桃が入学して、彼女とは一年間普通の生徒として接してきたわけだ。
大学在学中に取得していた教員免許。芸能界を去って、職を失った俺は恩師からの誘いを受けて、教壇に立つようになった。
この仕事を始めた経緯はつまるところ食っていくためだったが、いまではそれなりにやりがいを感じている。
生徒が成長し、学んでいく場所を作っていく。白紙の未来に迷わないように、未来を選ぶ手助けをしていく。
罪滅ぼしだったのかもしれない、とも思う。未来を壊した少女への罪滅ぼし。
「あ。大谷先生、おは~~~~」
「おはよう」
「大谷っち。今日もアゲアゲ?」
「ああ、アゲアゲ」
気さくに話しかけてくる生徒に相づちを打ち、自らの教室に向かう。
教室のドアに手を掛け、息を吸う。正直、今ほど自らの教室に入りたくないと思ったのは初めてだ。
ごくり、と喉を鳴らして俺は教室に入る。
「よし。ホームルームを始めるぞ」
いつも通り。平常心を保て、俺。
ざわざわしていた生徒たちが自らの机に戻っていく。このクラスは本当に陽キャが多い。だからこそ目立たない生徒もいるわけで、現状一番大人しくて目立たないと思っていたのだ。彼女のことを。
一番前の窓際の席で、静かに外の様子を眺めていた少女。隠しがちな前髪の奥で、何を見ていたのかは分からない。少なくとも今までの俺はそこまで気にしていなかった。
木崎はホームルームだと気づいたのか、教壇に立つ俺を見て、すぐにメモを取り出す。
「えっと、来週からテスト週間に入る。各自、忘れずに準備するように。ああ、ただあれだぞ? テストだから準備するんじゃなくて、日頃から勉強するのが大切だということを忘れずにな」
俺の指摘にクラス中から非難の声が上がり出す。
「先生は学生時代に勉強毎日していたんですか?」
「していない。だから今色々困ってる」
「おぉ、正直者だ」
「だからお前らは困らないようにしっかり勉強を頑張ってくれ。あと、今年の学園祭のアンケート配るぞ。受け取ったら後ろの席に回してくれ」
正直者。その言葉が苦くて、飲み込めない。少なくとも俺は正直者ではない。それに嘘は好かないが、必要な時はあるというのが俺の持論だ。
愛想笑いを浮かべながら俺は配布物を配っていく。
そして、俺は最後の列である窓際に近づく。
「これを後ろに」
俺は最後のプリントを木崎に渡す。いつものやりとりだ。一年間、ずっとやってきた普通のやりとりのはずなのに、声が上ずってしまう。
すると無言でプリントを受け取った木崎が俺を一瞥してきたのだ。
「先生? どうかしましたか?」
「っ!? あ、ああ。いや、何でもない」
配ったプリントが学園際の催しを決めるものだったせいか、教室内はざわついている。だから助かったのかもしれない。明らかに今の俺は挙動不審だ。
「さ、騒ぎすぎだ。んん。今配ったアンケートは今週の金曜日に回収するから、各自必ず記入しておくように。ほら、授業を始めるぞ」
パンパンと手を叩き、俺は自らの気持ちを入れ替える。
そこからはいつも通りだった。木崎は授業中も特に干渉してこないし、俺も干渉しない。
普通の教師と学生の距離感。
この一年間繰り返し行ってきたやりとりだ。
・・・・・・俺が気にしすぎたのかもしれない。あれは彼女なりの終わりの、決別のキスだったのかもしれない。
俺は彼女を置いて、逃げた。彼女の気持ちを拒絶してだ。こうして再開したのは偶然かもしれないが、一度終わった物語が再開するとは限らない。
だって俺と彼女はもう別々の人生を歩き始めているのだから。一般人のどこにでもいる教師と女子高校生として。
そうだ。俺と彼女の物語は終わった。終わったんだ。
そんな風に考えていた俺は今日の日直当番が木崎だと知った。日直当番は授業のたびに黒板の清掃、あとは移動教室の場合に鍵の返却を行うことになっている。
職員室でカップラーメンを啜り、自分のクラスを見ると最終講義が理科室での授業だということに気づく。
職員室を見渡すと丁度、日直の木崎が職員室に入ってくる所だった。
木崎は職員室を見渡し、俺を見つけると近づいてくる。
「次、実習なので鍵をもらいにきました」
「えっと理科室の鍵はーーーーあった。はい、鍵」
「ありがとうございます」
鍵を手渡すと木崎はぺこりと頭を下げた。だが木崎は俺の前からどこうとしない。
「えっと、どうした」
「いえ。カップ麺食べるんですね」
「え? ああ、どうしても手軽さに逃げてな。昔は自炊していたけどな」
「そうですね。よく差し入れでおにぎりをーーーー」
言いかけて木崎は苦虫を潰したような表情になり、俺も黙ってカップ麺を啜った。職員室内はそれなりにガヤガヤと煩いのに、俺と木崎の間には重たい沈黙が満たす。
昔はそうだった。一条蓮花は売れっ子で、俺はマネージャー。
分刻みのスケジュール管理を行うとどうしてもコンビニ飯が多くなる。当時は木崎も小学生だったし、栄養バランスを考えると自炊の効率が良かったのだ。
ただマネージャーを辞めてから自炊はめっきりだ。だってカップ麺旨いし、何より手頃だ。
「大谷先生」
「は、はい」
顔を上げた木崎は目を細める。
「もし良ければ手伝ってくれませんか? 移動教室の準備」
「俺が? あ、と、あれだったら俺の方でやっておくぞ? 木崎、昼食とかまだだろ?」
確か午後一の授業は入っていなかったし、何よりこれ以上木崎と一緒にいるとまずい気がするのだ。
だが木崎は俺の提案に首を横に振る。
「昼食はもう済ませたので。それに先生に全てを任せたら日直当番の意味がなくなります」
「それは、そうだが」
「それとも私と一緒になりたくない理由とかありますか?」
声色は変わっていないが、俺は言いよどんでしまう。何というか、挑発するような、覚悟を決めたような雰囲気を感じてしまうのだ。
・・・・・・ここで頑なに断るのも不自然、か。
今の俺と木崎は只の教師と生徒なのだから。
「分かった。じゃあ、行こうか」
「ありがとうございます」
俺は残りのカップ麺を食べきり、木崎と共に職員室を出て行く。
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