2話 唇が重なる

 じっと俺を見据える双眸に懐かしい光が宿る。

 言葉にして実感する。目の前にいる少女は間違いなく、一条蓮花だ。

「っ」

 華やかさはかなり薄れた。化粧はしていないのだろう。ただ間近で見るとよく分かる。顔の造形が、俺の記憶の中にある子供の一条蓮花をそのまま成長させた感じなのだ。

 思わず顔を逸らす俺に糾弾するような声が届く。

「随分と懐かしい名前で呼ぶわね。でも、一条蓮花はもう引退したわ。貴方がいないあの世界に未練はなかったもの」

 視界に細い影が走り、驚いてそのまま尻餅をつく。立ち上がろうとする俺の胸に小さな手のひらが当たり、そのまま床に押し倒された。

 黒髪が頬を撫でる。俺を上から覗き込む少女は無機質な声色で言葉を紡ぐ。

「また逃げる気?」

 心臓を掴まれたような痛みが走る。俺は覚悟を決め、視線に向かい合った。

「俺は、逃げてない。君のために」

「いえ。貴方は逃げた。今も、逃げているじゃない」

 間髪入れずに俺の言葉は切り捨てられた。まるで俺の答えをあらかじめ予想したような。違うな。彼女の問いは正しい。

 俺は逃げたのだ。そして、今も逃げている。

「あのとき。貴方が仕事を辞めて行方をくらましたとき。私がどれだけ絶望したか分かる? あのくそ親以外に頼れるのは貴方だけだった。でも、貴方は逃げた」

「・・・・・・君の気持ちに応えるわけにはいかなかったんだ」

 絞り出した言葉は事実だった。あのときの俺はいかにお互いが傷つかないかを考えることしかできなかった。

「俺が君の気持ちに応えたら、君の未来を奪うことになる。君は才能に溢れていた。俺がいなくても君ならやっていけると」

「思ったの? 馬鹿でしょ、貴方」

 ぐっと胸を押される力が強まる。息が詰まりそうだ。

「あの時の私にとって、貴方の存在があの世界にいる一番の理由だった。でも、貴方は逃げた。私を残して。だから一条蓮花は死んだ。貴方が殺したのよ?」

「・・・・・・恨んでいるのか?」

 分かりきった答えだなと思う。でも返ってきた言葉は意外なものだった。

「いえ? 恨むなんてとんでもない。むしろ貴方の選択はすごくまともで、正しくて、筋が通っている正解だったと思うわよ? 成人男性が小学生の告白受けたらまずいでしょ?」

「でも俺は、俺は逃げた」

「私を置いてね」

 嗜虐的に笑う表情にぞくりとする。

 ただ、一方でほっとしていた。心の中に残っていた小さな棘。あのときの俺の選択は間違っていなかったのだと。

 許されたと思った。あのときを言えなかった言葉を俺は口にする。

「本当にすまなかった。君の家庭の状況は知っていたのに俺は君を一人にして・・・・・・色々大変だったよな? 名字も変わっているんだな」

「あのくそ親とは縁を切ったからね。一人で暮していくには困らないほど貯金あるから」

「そ、そうか」

「これでも天才子役だったのよ? ま、今はただの学生を謳歌していますけど? こうやって声も普段と変えるとか普通にできるわ。誰かさんも気づかないほどにまだまだ現役でいけると思うし」

 すっと、胸に置かれていた手が離される。

 静寂に包まれた教室に遠くから生徒のかけ声が響く。今思えばこの状況はまずい。

 俺の上に馬乗りになる木崎の絵面は教師と学生がしてはいいものではない。

 俺は上半身を起こしながら言う。

「色々と話をしたいこともあるしまずはどいてくれ。誰か来たら説明が困るし」

「ええ。そうね。本当に、そう、誰かに見られたらまずいかもね」

 木崎は俺の言葉に応じながらも俺の体からどいてくれない。見下ろす顔から表情が抜け、俺はもう一度木崎の声を呼ぶ。

 そのときだ。ペタペタと廊下を誰かが歩いてくる音が聞こえてくる。

「えっと、木崎さん? どこに行ったの?」

「っ!?」

 この声は最上か? どうして? それよりもこの光景を見られるわけには。

 俺が木崎に再度どけてくれと言おうと向き直ると同時にぐいっと胸ぐらを掴まれて引き寄せられる。

「き、木崎――――」

 だが、言葉は塞がれた。唇に触れる熱に脳が麻痺する。

「――――」

「ぷはっ」

 木崎の顔が離れ、木崎は立ち上がる。

「恨んではいないわ。でも、許してもいないのよ、私」

 ぐいっと唇を制服の袖で拭った木崎は足早に教室の出口に向かい、ガララっとドアを開けた。

「最上さん。ごめんなさい。少し授業で分からないことがあって、大谷先生に質問していたの。じゃ、一緒に帰りましょう」

「うん。そ、そうだったんだ。あ、大谷先生もお疲れ様ですって、どうしたんですか?」

「え? あ、す、すまん。転んでしまって」

「大谷先生もドジなんですね、本当に」

 教室から顔を出す最上と振り返る木崎の言葉に俺は曖昧に笑う。笑うしかできない。そこにいたのは俺が一年間見続けてきた木崎胡桃の姿だったからだ。

「じゃあ、行きましょうか」

「うん」

 鞄を肩に背負い、教室から出て行く。

 刹那、俺と木崎の視線がぶつかる。

 未だに困惑する俺と微笑を浮かべる木崎。二人の足音が遠ざかり、俺はそのままずるずると教室の床に大の字で倒れた。

 何がどうなってるんだ。木崎が一条蓮花? どうして気づけなかった? 

 ぐるぐると回る考えは浮かんでは消えていく。

 すると腰に入れていたスマホが振動するのを感じた。確認するとそこにはずっと連絡を取り合っていなかった彼女からのメールだった。


『大谷先生、説明に困らなくて良かったわね?』


 俺は声にならない鈍痛を感じて、天を仰ぐしかできなかった。

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