第2話 作りたかった自宅ディナー2

 安達花穂の生活が、一人暮らしのアパートと会社を往復する灰色の日常生活から真っ白な病室の闘病生活に変化したのはわずかな間だった。


 連日の頭痛、何度かの失神、病院での精密検査……医師から余命半年と告げられ、ほぼその死の宣告通りに花穂は半年で息を引き取った。


「いまどんな気分?」


「なんだろ……悪いだろうな、と思ってたテストの結果が帰ってきて予想通り悪かった、って諦めたような気持ちっていうか……少し、せいせいした気持ちもある」


 半年の間、ずっと「不思議なことに全ての病巣が消えています。奇跡だ」といつ言ってくれるのだろう。言って欲しい、お願いだから……ずっとそう思ってきた。


 だが奇跡は起こらなかった。


「そ。多いわ、そういう死者も」


 少女は自分から聞いたくせに花穂の返答を大して気にかけていない様子だ。


「……ここは? ひょっとしてあの世?」

「いいえ。あなたみたいにこの世に強い未練がある死者が来るところよ」

「強い未練……」

 

 それはそうだ。

 まだ二十五歳、就職して新卒で入った会社で働いて三年が経ったばかり。未練がない方がおかしいだろう。  


 未練……。


(安達さんはええ子やなー)


 ふいに、花穂はいつも暖かい気持ちにさせてくれた原野先輩の言葉を思い出した。

 細めた目、にやけた口、やさしい関西弁。

 原野先輩……。


「そ。だから貴方は死神の私のところにやってきた」


 は? 死神? 

 黒髪の少女は聞き流しそうなくらいさりげなく聞き捨てならないことを口にすると、「はい」と細長い革表紙の冊子を差し出した。


「なにこれ?」

「ここはどういうところに見える?」

「喫茶店みたいだけど……」

「こういうところで差し出されるものといえば?」

「……メニュー?」

「そ。わかってるじゃない。好きなものを選んで」

「へ? 選んでって……どういうこと? 全然わからないんだけど!」

 

 死後、見知らぬ喫茶店で目覚めたら見知らぬ少女にメニューを差し出され、好きな物を選べと言われた……うん、まとめても意味がわからない。


「……面倒くさいから省けるなら省きたかったんだけど、やっぱり説明しないとダメみたいね」


 少女は行儀悪く店のカウンターテーブルに腰を下ろすと、


「昔ね、バカな死神がいたのよ」


 と、だるそうに自分の腿に肘をのせて頬杖をついた。

 豊かな黒髪が白いテーブルの上に流れ落ちる。

 

「死神の仕事は死者をあの世へ送ること。でも死者の中にはこの世に強い未練があってあの世へ行けない者がいる。そういう死者を強制的にあの世へ送るのも死神の仕事の一つ」


 何度も繰り返しているのだろう。死神を名乗る少女の説明は淀みなく、少しうんざりしている様子さえあった。


 清楚な黒髪にも関わらず日本人形というより西洋人形を黒髪にしたような印象を受けるのは、その目がどこか老成したような沈んだ輝きがあるせいかもしれない。


「ある時、そのバカな死神は強制的な方法であの世へ送るのは死者が気の毒だと言い出した。できるだけ穏やかな方法で送ってやりたい、と」

「穏やかな方法?」

「そ。それが〈あの世のものを食べさせる〉こと」

「あ、あの世の食べ物?」


 あの世の食べ物と聞いて食欲をそそる食物を思い浮かべることができる人間は稀だろう。花穂は皿に何かグロテスクなものが載っている光景を想像して寒気がした。

 

「あの世とこの世には〈ルール〉があるわ。〈あの世のモノを食べた者はあの世の者になる〉そういうルールがある」

「聞いたことないよ、そんなの……」

「まあ生きている人間はふつう知らないことよ。でも神話や伝説の形で語られることがある。〈ヨモツヘグイ〉って聞いたことある?」

「よもつ……何それ?」

「古事記に出てくる言葉よ。死んだ妻のイザナミを追って黄泉の国に行ったイザナギは、再会したイザナミから自分は帰れない、と断られる。自分はすでに黄泉の国のものを食べてしまったから、と」


 ……早くいらっしゃらなくて残念です。私はもう黄泉国の食べ物を食べてしまいました。


「それが何だっていうの? 神話って作り事の話でしょう?」

「神話には世界の理が語られていることがあるものよ。供食儀礼と言ってね。ギリシャ神話とか、世界中にこうした物語があるわ。まあ、要は〈あの世の物を食べるとあの世の者になる〉。世界にはそういうルールがある。このルールを利用して、さまよう亡者にあの世の物を食べさせて、あの世へ送ろうってわけ」


 花穂は嫌々ながら聞いてみた。


「……あの、食べたくないって言ったら?」

「昔ながらの強制的な方法をとるしかないわね」


 にこ、と少女は笑った。白い花が咲くような笑顔。

 だが。


「ってなにそれ!?」

「何って、鎌だけど?」


 少女は長大な大鎌を片手で持っていた。

 狭い店内に出現した大鎌は物干し竿を途中で直角に曲げたほどの長さがある。

 切先が花穂の右頬をちくりと突く。


「あの、強制的な方法って……」

「そ。これでばっさり。楽よー」

「そりゃあなたは楽でしょうね!」


 大鎌で斬られるか、材料不明のあの世の食べ物を食べるかの二択。

 どっちも嫌だが、後者の方がまだマシな気がした。


「えっと……あの世の食べ物ってどんな……?」

「それが今渡したメニューよ」


 化物の目玉とか気色悪いものじゃありませんように……。

 おそるおそる皮表紙を開くと、


「え? なにこれ……?」

 

 花穂は目を見張った。

 そこにあったのは見慣れた料理だった……ただ、すべて別々の時と場で目にしたはずの。


 うちの唐揚げ。

 川島さんの家の餃子。

 千弥食堂のハンバーグ定食。

 スーパーアリヨシのネギトロ巻。

 川島屋の鳥南蛮弁当。

 金沢日本海亭の海鮮丼。

 京都やま本のしいたけの天麩羅……。


「あなたが生きている時に思い出に残った食べ物よ。材料はあの世のものだけど、味も香りも完全に再現できる」

「なにそれ魔法!? もう無い店とか、新鮮な材料を使うものとかもあるんだけど!?」

「ここは色々と融通がきくの」


 少女の説明はそれだけだった。

 たしかにメニューには何も説明していないのに、花穂が二十五年という短い人生で食べた思い出の料理が並んでいた。ご丁寧に全て「¥0」と書いてある。


 「うちの唐揚げ」というのはむかし母が作ってくれた唐揚げのことだろう。


 「川島さんの家の餃子」は小学校の頃の友達の家で食べた手作り餃子だ。

 うちで食べるのと全く違う味で、何度も母に話してうちのご飯は手作りが少なくてごめんね、と言われ慌てた記憶がある。


 他にも小学校の頃に住んでいた商店街の老舗の食堂のハンバーグ定食。

 中学の頃、近所のスーパーで買っていたネギトロ(もちろん閉店直前に割引されてからだ)。

 大学の頃、金沢旅行に行った時に食べた海鮮丼に、親戚のおばさんからご馳走してもらった天麩羅……。


 自分のアルバムを見ているかのようだ。庶民的なメニューばかりで、恥ずかしいような情けないような気がしてくる。


「この中からどれを選んでもいいの?」

「ええ」


 花穂はその不思議なメニューにじっと見入っていると、一つのメニューが目に止まった。


「……じゃあこれでもいい?」

 

 花穂が指差したメニューを見ると、少女は頷いた。


「『自宅ディナー』……ご注文は以上?」


 恥ずかしいから声に出して読み上げないでよ、と思ったものの、花穂は神妙に「はい」と頷いた。

 

 少女は黒髪を翻して奥へ消えた。

 すぐに包丁の音と、肉を焼く音が聞こえてきた。


 花穂は窓の外を見た。夕焼けのオレンジの光がまぶしく、外の風景は全く見えない。

 一体どこにある店なのだろう。

 だが店の外に出ようという気は少しも起こらない。

 ……そうだ、私はもう死んでいるんだから、未練なんて断ち切らないと。

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