第96話 壊れていくのを感じました


 俺の両親は杏に殺された?

 にわかに信じがたい内容に俺は言葉を失いつつ、頭を抑えて発狂する杏をただただ見つめるだけだった。


「いやあぁぁぁぁ!! 違うぅぅぅ! ちがうのぉぉぉっっ!!」


 廊下に杏の悲鳴が響く。

 

 一体なんの冗談だ?

 そんな俺の心の声を見透かしたかのように由良が口を開いた。


「信じられませんよね? でも、嘘では無い事は杏ちゃんの反応が教えてくれているでしょう?」

「な、なにを言っているんですか? 杏が父さんと母さんを?」


 そんなわけ無い。しかし……なんだ? この胸騒ぎは?


 いや、そんな事より杏が辛そうだ。


 ……助けないと。


 杏は両親を亡くした俺のそばにずっといてくれた。

 だから、彼女が辛い時は俺が助けてやらなくちゃ。


 杏の元へ足を進める。しかし目眩だろうか? 視界が歪む。足も上手く動かない。

 なんか体が……おかしい。早く杏の元へ行かないと。

 ……あれ? なんで俺は杏の元に向かってるんだっけ? どうして杏はそんなに辛そうなんだ?

 考えが上手くまとまらない。視界の歪みがどんどんと酷くなる。それでも、ふらつきながら杏を目指した。


 なぁ杏、白花も連れて一緒に帰ろう。お前達がいないと俺……寂しいんだよ。


 俺は既に現状を理解できていなかった。この時はただ、両手で頭を押えて泣き叫びながら震える杏を早く抱きしめてやらなきゃって。その一心だった。

 つい数秒前の出来事なのに……何故彼女がこうなったのか、その理由は何故だか忘れてしまっていた。


 なぁ杏、お前は嫌な顔をするかもしれないけど、はなたも一緒なんだ。お前も知ってる通り、はなたとは釧路で3ヶ月も一緒に過ごして前より仲良くなったし、他にも一杯釧路での土産話があるんだ。


 一歩、一歩。確実に杏に近づく。


 なぁ杏、もうそんな顔しないでくれよ。杏の笑った顔が見たいんだ。


 杏の元まで残り1、2歩。すると、杏は俺を見るや否やひっと短く悲鳴をあげて後ずさる。俺を見るその目は、完全に怯えていた。


「ごめんなさい豊……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ!」


 何度も同じ言葉を繰り返すその姿は俺が知っている杏ではなかった。


 なぁ杏、どうして逃げるんだよ? 俺はただ……。


 再び杏の元へ、歩を進める。脳が焼けるように熱い。


 なぁ杏、大丈夫。大丈夫だから……。


 杏に手を伸ばす。


 なぁ杏……なぁ杏……なぁ、杏……。


「……杏」


 良かった……やっと声が出た。次は謝る事は無い。俺はなにも怒ってないから。そう言って杏を安心させてあげなきゃ。

 一呼吸おいて、縮こまった肺に空気を取り込んで、「杏」と再び彼女を呼ぶ。変わらず酷く怯えつつも俺を見る彼女にこう言った……。


「――どうして……父さんと母さんを殺した?」


 あれ? 俺はなにを言ってるんだ? そう思った途端、脳の後ろの方でプツンと鳴ったような気がしたのを感じると、頭の中にどこか見覚えのある映像が流れ込んで来た。

 

「……うっ! ああぐぅぅぅ」


 呻きながら頭を抱えて膝から崩れ落ちる。そして先程頭の中で鳴った音の正体がわかった。あれは開けてはいけない記憶の蓋を封じ込めていた最後の封が切れる音だ。

 医師に言われていた通り、心が壊れるのを防ぐため脳が無意識に封じ込めていた……両親が死んだ時あのときの記憶だ。

 

「あ、ああぁぁ……あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙っ!!」


 次々と流れ込んでくる記憶が濁流のように歯止めも聞かずに脳内を侵食していく。

 あの日、あの時、あの場所で……血溜まりを作って倒れる両親。そのそばで涙を流しながらへたり込んでいたのは……杏。その手は両親の血で染まっていた。

 そして当時、その光景を見た俺が言った言葉を記憶の中の自分と合わせるように再び口にした。


「「なんで……どうして……」」


 脳がショートした俺が発狂するまで時間はかからなかった。

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