第95話 不気味な笑みでした。


 目に映った光景が理解できず、思考が止まった。


 どうして? どうしてここに?


 ここにいるはずのないその人物の名を呼んだ。


「杏……?」

「……豊?」


 きっと状況を飲み込めないのは杏も一緒なのだろう。お互いがお互いを見つめ合い沈黙が続く。すると俺の隣にいるはなたが俺が言いたい事を代弁してくれた。


「杏先輩ッ!? どうしてこんなところに!」

「涼森さん……? どうして豊と……いや、豊がここにいて良いわけ無い! 豊はここに来ちゃ駄目! 絶対駄目ッ!」


 突如取り乱した杏が足早に俺の元へと駆け寄り、そのまま俺の腕を掴んで俺達が進んできた方とは逆の方、つまり出口の方へと引っ張り始めた。


「帰ろう豊! 駄目なの! ここは豊が来ていい場所じゃないの!」

「ちょ、杏待ってくれ! ここに来たのには訳が!」

「待たない! 理由も聞きたくないっ! 早くここから出て!」


 聞く耳を持たない杏はそのまま俺を引っ張り続ける。そんな俺達の間にはなたが割り込んだ。


「杏先輩! 辞めてください! 豊さんだって来たくて来た訳じゃないんですから!」

「黙ってて! あなたには関係ないでしょ!」


 間に入ったはなたを杏が振り払う。勢いを殺しきれず、バランスを失ったはなたはそのまま尻もちをついた。


「きゃっ!」

「はなた! 大丈夫か?」

「え、えぇ……」


 幸いはなたに怪我は無さそうだ。一方ではなたに危害を加えた張本人である杏は謝るどころか、彼女を気にもかけない。


「駄目、豊が思い出しちゃう……豊が壊れちゃう……」


 ぶつぶつと呟きながら杏は尚も俺を引っ張り続けていた。

 ただならぬその様子に俺は抵抗を辞め、彼女の両肩を掴んで目を見つめた。


「杏ッ! 落ち着けッ!」


 生まれてからほぼ一緒で、自他共に認める大の仲良しである幼馴染に初めて声を荒らげた。その言葉は取り乱していた杏にも届いたようで、彼女は体をビクッと震わせた。


「豊……わ、私……」

「杏、見てくれ、俺は大丈夫だ」

「私は……ただ豊を……」


 声を詰まらせ、なにか怯えたような目をする杏。そんな彼女にかける言葉を探していると、もう1人の俺ではない男の声が廊下に響いた。


「おーおー相変わらずモテモテですねぇ……豊君」


 声がしたのは廊下の奥、その中心を歩きながら片手をよれた白衣のポケットに入れて、空いた片方の手のぼさぼさの頭を搔く人物が1人、由良だった。


「いやぁ~よくぞここまで来てくれました」

「由良さんッ!!」

「豊君、1人で来なさいと言ったはずですが? どうやら彼女とはもう会えなくても良いみたいですね」

「……ッ! 違うんです! この2人とはここでたまたま会っただけで!」

 

 由良はスマホを取り出し、誰かに電話をかけた。


「どうやら、人質を取る意味はなくなった」


 会話の内容を聞いた途端、血の気が引いた。


「待ってください! 本当なんですッ!」


「――処分しろ」


「やめてくれぇぇぇっっ!!」


 俺の叫び声は虚しく、廊下に響き渡る。

 由良さんはニヤリと笑みを浮かべた。


「なーんて、冗談!」

「……え?」

「杏ちゃんと君、そしてそこのはなたちゃんも私が呼んだんです……今この施設にはここにいる私たち含めて、後2人しかいません。そのうちの1人は白花さんです」


 安堵のあまり、腰が抜けそうになるのを堪えていると、杏は掴んでいた俺の服の裾を離し、由良に向き直った。


「白花……? 白花もここにいるの」


 杏のこの反応……どうやら白花がここにいる事は知らなったみたいだな……。


「ねぇ由良さん! どうして豊と白花、それに涼森さんまでここにいるの!?」

「いろいろわけがあるんですよ~杏ちゃん……それに豊君には、全てを思い出してもらわないといけないんですよ」

「……ッ!!」


 杏の表情が凍り付いた。


「そんな……約束が違うッ! 今日ここに来て、研究を少し手伝えば黙っててやるって!」

「嘘に決まってるじゃないですかぁ……そうでも言わないと、杏ちゃん、ここに来てくれないじゃないですか」

「辞めて……お願いッ! 豊、耳塞いで!」

「駄目ですよぉ~豊君、そんな事をしたら今度こそ本当に白花さんとはずっと会えませんからね?」


 由良の脅迫に俺は従うしかなかった。

 なにか彼の意に反する行動を起こせば白花が危ない。それを理解した杏は「辞めて……辞めて」と懇願するだけだった。


「さて、豊君。君はこの場所の事をあまり覚えていませんよね?」

「……それが何か関係あるんですか?」

「大ありですよぉ! しかし、この廊下を進むうちに不鮮明ながらも徐々に思い出している。違いませんか?」


 由良の推測は当たっている。ここに来てから、少しずつだがここでの記憶が蘇っている。しかしそのどれも他愛のない内容のはずだ。彼になんの関係がある?


「それがなにか? 貴方の要求を満たすようなものは無いと思いますが……」

「今はまだね……しかし君が本能で仕舞い込んだ記憶の封印は、ここに来て確実に不安定になっている。このタイミングで強いショックを与えれば、一気に思い出すでしょうね」


 強いショック……? 何の事だ?

 その言葉の意味を理解したのは杏だけだった。


「ッ!! いや! 辞めてッ!」

「おっと動かないでください杏ちゃん。大切な親友がどうなってもいいですんか?」

「いや……お願い……お願いします!」

「駄目ですよ~。さて豊君、辛い事を聞きますが、あなたはご両親が亡くなった時、現場にいた……それは知ってますね?」

「え、えぇ……後から医者や警察から聞いた話ですけど……」

「へぇ……これも知ってます? って」

「……えっ?」


 そんなはずはない。俺の両親は不運にも突如倒れた機材の下敷きになったって……。

 

「お願い辞めて! お願いぃぃぃ!」


 杏が俺達の会話を遮るように叫ぶ。しかしそんなことはお構いなしに由良は不気味な笑みを浮かべたまま、ある人物に指をさした。


「君の両親はね……殺されたんですよ……その人にっ!」


 その指の線上には――杏がいた。


「い、いやああぁぁぁぁぁぁッッ!!!」 


 断末魔のような叫び声が廊下に響いた。

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