第86話 走ったら楽になりました

「会長! 遅いですよ!」

「ちょ、ちょっと待て! 少し早くないか!?」

 

 ランニングウェアに着替え、冷え込んだ空気の中をペース配分を考えず走る俺の後ろを一ノ瀬会長が戸惑いつつも追いかけてくる。


「これでいいんですよ。もしかして追いつけないんですか?」

「……なんだと?」


 俺の煽りに感化されたのか、一ノ瀬会長は一気にスピードを上げるとあっという間に俺の横に並んだ。


「さ、流石は元陸上部ですね」

「ふふ……現役ではないとはいえ、まだまだこれくらいは走れるさ……時庭豊こそ、息が上がっているんじゃないか?」

「なんのこれしき! まだまだ!」


 俺は更にスピードを上げる。一ノ瀬会長も負けじとついてくる。

 俺達は静寂に包まれた河原を並走した。


「そ、それよりも時庭豊? どうしていきなり『走ろう』だなんて言い出したんだ?」

「落ち込んだ時に走るのが俺なりの解消法だからです! ペースなんて考えず、馬鹿みたいに走るんです!」

「……だから、私を誘ったのか?」

「はい! 次の橋のたもとまで競争ですよ!」


 俺達は橋に向かって一直線に走る。

 先程まで冷たい空気で冷えた肺が痛かったのに、今では胸の内が熱く、俺達の口からは濃い白い息が吐きだされている。


「……ふふ、あはっ! あはははは!」


 突如一ノ瀬会長が笑い声をあげる。

 冷えた頬を赤く染め、汗が滲むその表情はいつもの彼女からは考えられない程無邪気な笑顔だった。

 そして一歩、また一歩と踏み出す俺達は同時にゴールである橋の袂へ辿り着くと、全力疾走を続けた体が限界を迎えたのか、崩れ落ちるようにへたり込んだ。


「ぜぇ……ぜぇ……今のは……俺の勝ちじゃないですか……?」

「な、なにを言って……いる……私の方が半歩先……だっ……た」

「と、とりあえず……ちょっと休憩しません?」

「さ、賛成だ……」


 呼吸を整え為俺達は、そのまま河原に腰を下ろす。

 冬とはいえ、全力疾走をすれば体は熱くなり、お互いの顔からは汗が滴り落ちていた。


「……ありがとう。時庭豊」

「……俺はただ会長をランニングに誘っただけですよ」

「そのおかげでだいぶ心が軽くなったよ」

「それはなによりです。俺もしんどくなったらよくこうして頭が空っぽになるくらいにがむしゃらに走ってたんですよ」

「君でもそこまで悩むことがあるんだな……」

「……俺、両親を事故で失くしているんです。当時はずっと落ち込んでたけど、さっきみたいに馬鹿みたいに走って、脳に酸素が行きわたらなくなるくらいに疲れると少し楽になったんです。その時からランニングにハマっちゃって」

「そうだったのか……辛い過去を思い出させてしまってすまない……」

「あっ大丈夫ですからね! 聞かれてもいないのに話し始めたの俺ですし……汗が冷える前に帰りましょうか!」

 

 失言を誤魔化すように慌てて立ち上がる。しかし一ノ瀬会長は腰を下ろしたまま動かない。


「会長? 風邪ひきますよ?」

「……なぁ時庭豊。私は残る2週間で失った信用を取り戻したい。釧路で知り合った友人達とは最後笑ってさよならを言いたい!」


 覚悟を決めた一ノ瀬会長は強く、気高い目をしていた。そんな彼女に俺は微笑みながら、彼女の隣に再び腰を下ろした。


「会長なら大丈夫ですよ。きっと最後にはクラスメイト全員が涙を流して会長との別れを惜しむでしょうね」

「そ、そこまでにはならないだろう!?」

「なりませんかね? まぁとにかく、俺はいつでも会長の味方ですよ」

「……っ!!」


 そう言うと一ノ瀬は驚いた表情を見せたのも束の間、その顔はぽっと赤くなる。


「そ、そういうセリフを平気で言うな!」

「なんでですか?」

「……勘違いしちゃうだろ……」

「え? 今なんて?」

「なんでもない! 馬鹿!」


 今のやり取りの何処が彼女の機嫌を損ねてしまったのかは見当もつかない。

 しかしその表情に先程の様な暗さは感じない。俺にはそれがわかれば十分だ。


「全く……時波白花や波里杏、涼森はなたの気持ちがわかったよ……」

「どう言う事ですか?」

「うるさい! ほら、そろそろ帰るぞ!」


 呆れた様子で立ち上がった一ノ瀬会長は地面と接していた箇所をぽんぽんと払うと俺に背を向けて、帰り道を歩み始めると何者かが彼女の名を呼んだ。


「あれ? 一ノ瀬さん?」


 声のした方へ振り向くとそこには一見、同年代と見られる女性の姿があった。


「……!!」


 彼女の顔を確認するや否や、一ノ瀬会長の目つきが酷く強張る。


「会長? この人は?」

「……クラスメイトだ」

「そうなんですか……どうも」


 会長のクラスメイトという事は俺の先輩だ。

 俺は名も知らぬ彼女に軽い会釈をすると、彼女も同じ様に会釈で返す。

 一ノ瀬会長とクラスメイトの間には気まずい空気が流れていた。

 当然だ。一ノ瀬会長にとっては今おそらく顔を合わせたくない人間の1人が目の前にいるのだから。


「一ノ瀬さん……こんな所で奇遇だね」

「あ、あぁそうだな……あ、あの!」


「一ノ瀬さん、ごめんなさい!」


 一ノ瀬会長の言葉を遮ったクラスメイトの声が河原に響く。その言葉の意味を俺はもちろん一ノ瀬会長もすぐには理解できなかった。


「え? 謝るのは私の方……」

「違うよ! なんでもやってくれる一ノ瀬さんに甘えて、いろいろ任せ過ぎた私達の責任だよ!」

「で、でも……明らかに皆、私を避けていたじゃないか」

「それはね……私達も責任感じちゃって、どう接していいかわからなかったの……辛い思いさせて本当にごめんなさい!」


 クラスメイトは深々と頭を下げる。少しの静寂の後、一ノ瀬会長は大きく、とても大きく息を吐きながら膝に手をついた。


「……良かった。私はてっきり皆に嫌われたのかと……」


 緊張の糸が切れてしまったのか、大粒の涙を流していた一ノ瀬会長の震える背中を俺は優しく擦る。


「良かったですね。会長」

「……そうだな」


 少しばかりの嗚咽を漏らした後、涙を拭った一ノ瀬会長は目の周りを赤く腫れさせながらも、いつものように凛とした様子で顔を上げた。


「よし! うじうじするのは辞めだ! 早く帰って明日の学業に備えなければ!」

「ふふ……良かった。いつもの一ノ瀬さんに戻って……そういえばさっきから気になっていたんだけど、一ノ瀬さんの隣にいるのはもしかして彼氏とか?」


 思いもよらぬ問いかけに俺と一ノ瀬会長は一瞬固まり、互いを見合ってはすぐに目を逸らす。


「ち、違いますよ! 俺と一ノ瀬会長はそういった関係じゃありません! ねぇ会長?」

「……」

「会長?」


 否定する俺と否定しない一ノ瀬会長の間に再び沈黙が流れる。

 すると突然、一ノ瀬会長は俺の腕を組み顔を真っ赤に染めてクラスメイトに向き直った。


「そう見えるか?」

「まぁ! やっぱり!」


 一ノ瀬会長につられるように頬を赤く染めたクラスメイトは口を抑える。当の俺は……まったく状況が理解できなかった。

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