第42話 少しだけ、自分を出しました

「豊? 杏、どうして帰っちゃたの?」


「……ちょっとな」


  杏が家を飛び出してから、3時間程経過したころ、アイスを買って帰宅した白花は杏がいつまでも帰ってこないことを不審に思ったようだが、「俺のせいで杏は帰ってしまった」とは言えなかった。そんなはっきりものを言わない俺の顔を白花がじっと見つめる。


「むー……」


「なんだよ?」


「……豊と杏、喧嘩した?」


 鋭い言葉に見事な図星の反応をしてしまう。

 

「な、なんでだよ?」


「なんとなく、そんな気がしたの。駄目だよ? 仲直りしなきゃ」


「別に喧嘩なんか……」


「豊?」


 白花は真剣な眼差しで、口籠る俺の手をぎゅっと握った。


「仲直りしてきて」


「……そうだな」


 俺がそう言うと、彼女は手をパンと1回叩きながら真剣な表情を崩し、笑顔になる。


「じゃあ今日は源さん仕事で遅くなるって言ってたし、私が晩御飯作って待ってるね! そうと決まったら……ほら! 早く杏を連れてきて!」


「わかった、行ってくる」


「行ってらっしゃい!」


 白花に見送られ、家を出る。1件隣に建つ波里家の前に立つと、このままインターフォンを押すか、1度連絡するべきか迷ったが、杏は私物を持たずに飛び出した為、彼女のスマホも俺の家に置いたままだったことを思い出す。つまり俺がとるべき行動は一択。インターフォンに手を伸ばし、呼び出し音を鳴らすと、インターフォンのスピーカーから杏の声が聞こえた。


「……はい」

 

「杏、俺だ」


「豊? どうしたの?」


「さっきのこと、謝りたい。だから開けてくれないか?」


「……わかった」


 少しすると玄関の扉が開き、中から姿を見せた杏の眼は先程まで涙を流していたと一目でわかるほど赤く腫れていた。


「お前、その目……」


「……とりあえずあがって?」


「お、お邪魔します……」


 杏の家に入るのは何年ぶりだろう? 最後に入ったのは、小学校の低学年の時だっただろうか? 家の中はほとんど彼女の家族が不在のせいか、最低限の家具しかなく寂しい雰囲気を感じた。


「とりあえず座って?」


 言われた通りにソファに腰かけた俺の隣に杏が座る。


「杏、その……悪かった。まさか雅の事を知ってるとは思わなかったんだ」


「……豊が謝ることないよ。少し前にね、パパとママから聞いたんだ。『新しいスポンサーがついた』って、その会社の社長の名前が雅ってことも」


 そうか……だから、俺が雅の名前を口にした途端に察したのか。


「そうだったのか……。でも、俺が嘘をついていなければ、こんなことには……ごめんな」


 杏は首を横に振る。


「ううん。もし豊が嘘をついてなくても、私は取り乱していたと思う」


「杏がそこまでしてくれるのは、俺の為……なんだよな?」


 彼女はすぐに返事をせず、膝を抱え、顔を俯かせた。


「……うん、そうなんだと思う」


  ずっと引っかかっていた。を彼女が異常なまでに嫌う理由。今日なら、はっきりできるかもしれない。


「他に何か理由があるのか? あるなら教えてくれないか?」


「……ない……ないよ。豊が心配なだけ」


「本当か? 何か隠してないか?」


「隠してない! お願いだから、これ以上その話は辞めて!」


 突如叫び始め、膝を抱える力を強めた杏は肩を震わせながら、「う……うぅ……」と抑えきれない声を漏らす。彼女は泣いていた。

 

「杏……」


「ごめんね豊、私が悪いの」


「杏は悪くない。悪いのはいつまでも乗り越えられない俺だ」


「違う、違うの豊。全部……全部私のせいなの。私さえいなければ……」


 たかぶった感情を抑えられないのか、杏は自己否定を初めてしまう。彼女のこんな姿を見るのは、初めてだ。


「そんなこと言うなよ? 杏が支えてくれたから、俺は1番辛い時をなんとか踏ん張れたんだぜ?」


「それは……うぅ」


 嗚咽が邪魔をするのか、上手く返事をできない彼女の背中をさする。すると、ダムが決壊するかの様に彼女は大きな泣き声をあげた。


「……うぅ……うわぁぁぁん!」


 しばらく杏は子供の様に泣き続けた。そんな彼女の背中を優しく摩り続けながら、ある決意を心の中で固める。


 ――乗り越えなきゃ。でなければこの先ずっと苦しむのは俺だけではない、杏もだ。今日で確信した。彼女は俺が「心配なだけ」と言ったが、それだけじゃない理由がきっとあるはず。今はわからなくてもいい、でもいつか……。


 少し経つと、思いのまま泣いてスッキリしたのか、落ち着きを取り戻した杏は口を開いた。


「……ごめん」


「気にするなよ。謝らなきゃいけないのは俺の方かもな。あの事件は俺だけの辛いものだと思ってたんだ。でも……お前にとっても、それほどになるまでの理由があるんだろ? いつか……いつかでいいからさ、言える時が来たら教えてくれないか?」


「……言える時なんてくるのかな」


「来るまで待つよ……ずっと」


「ずっと?」


「ずっとだ」


「……ありがとう」


「よし、この話はこれで終わりにしよう! 今日は白花が夕飯作ってくれてるみたいだぞ?」


「それは楽しみだな。でも……まだ、出来上がるまで時間あるかな?」


「え? まぁ、完成まではもう少し時間かかると思うけど」


「じゃあ、まだ2


「ど、どういうことだ?」


「……相変わらずだね。バカ豊」


 意味はわからないが、俺を揶揄からかってクスッと笑う彼女を見て、少し安心していると、杏は俺に体を向けて両手を広げた。


「ん!」


「な、なんだ?」


 戸惑う俺に構わず、杏は両手を広げたまま何かを要求する。


「ん!」


「だから、何してほしんだよ? そのまま抱き締めてやればいいのか?」


「そうだよ?」


「はぁ!?」


 冗談で言ったつもりだが、まさか正解だったとは……しかし何故?


「なんで急に……」


「余計なこと考えてないで、早くして」


 急かす杏に俺は覚悟を決める。さっきまであんなに泣いていた彼女の気が少しでも楽になるなら……抱き締めることくらいお安い御用だ。


 両手を広げて俺を待つ彼女の背中に手を回す。答えるように彼女も俺の背中に手を回し、ギュッと力を入れて、何も言わずに胸の辺りに顔を埋めた。俺をいつも支えてくれる背中は、意外に小さいと感じながら、うるさい心臓の音が彼女に伝わっていないことを祈っていた。


 そのまま、ある程度の時間が経過しても、杏は抱き締める力を緩めない。そろそろ帰らないと、白花が心配してしまう。


「杏、そろそろ……」


「もう少し、もう少しだけ」


 彼女は抱き締める力を更に強め、深く息を吸う。


「……うん、もう大丈夫! ありがと豊」


「こんなんで本当に楽になったのか?」


 俺の質問に彼女は呆れた顔で答える。


「本当に豊は……ほら、行くよ! 私おなかペコペコ!」


「おい杏、ちょっと待ってくれ!」


 波里家を出て、隣の時庭家までの短い距離を再び歩く。波里家に向かった時のような暗い気持ちは無く、すっきりとした気分で我が家に辿り着き、玄関を開けるとエプロン姿の白花が、なんとも言えぬ異臭と共に出迎えた。


「2人ともおかえり!」


「白花ちゃんただいま……こ、この臭いはなに!?」


「なにって、晩御飯だよ?」


 お世辞でも食欲はそそられそうにない激臭に鼻を摘まみそうになるが、そんなことをしたら白花に失礼すぎる。

 

「白花……お前、何作ったんだ?」


「見てからのお楽しみ! さぁ、こっちに来て!」


 先にダイニングへと向かった白花の後についていくと、ダイニングテーブルには今まで見たことのない料理が並んでいた。


「白花……一体なにを作ったんだ?」


「カレーライスだよ!」


 目の前にあるのは、俺が知っているカレーライスではなかった。水の分量を確実に間違っていると一目でわかる米に、謎にうごめいている紫色のルーらしきものが不気味な存在感を放っている。


「どうしたら、こんな色になるんだ……?」


「白花ちゃん……なに入れたの? なんだか邪悪な何かが、笑っているみたいに見えるんだけど……」


「うーん普通に作ったつもりなんだけどな……まぁまぁ、とりあえず召し上がれ!」


 無邪気な笑みでカレーライス(仮)を進めてくる白花に俺と杏に「食べない」という道はあるはずない。


「ゆ、豊……先どうぞ!?」


「杏こそ! 『おなかペコペコ』って言ってただろ?」


 1口目を譲り合う俺達の横で、白花が悲しそうな声を出す。


「もしかして……私が作った料理、美味しくなそう?」


「そ、そんなことないぞ白花! じゃあ、俺からいただきこうかな! いやぁ美味しそうだなー……」


 もう後には引けない。スプーンを持ち、禍々しさすら感じる白花お手製の料理を徐々に口へと近づける。


 酷いのは見た目だけ……味は最高のなはずだ。なにせ、じいちゃんが作るあんなに美味い料理を白花は毎日食べているのだから――そう自分に言い聞かせ、スプーンに乗った料理を口に運ぶと、俺の記憶はそこから途切れた。

 


 

 

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