第42話 出て行ってしまいました

 目を覚ますと白花の声が天井の方から聞こえた。


「あっ起きた?」


 上から俺を見下ろす彼女の顔を見て、眠る前の自分はどこでどうなっていたのかを思い出す。片方の頬には、さらさらとした感覚が続いていることに気づいて、慌てて体を起こした。


「わ、悪い!」


「謝ることないよ? おはよ豊」


「あ、あぁ……結構寝てたか?」


「うーん、1時間くらいかな」


「そんなに寝てたのか。起こしてくれればよかったのに」


「なんで? 豊に甘えられているみたいで嬉しかったよ?」


「それこそなんでだよ? どうして俺に甘えられて嬉しいんだ?」


「豊が大好きだから!」


 恥ずかしげもなく堂々としている杏にたじろぎながら答える。


「馬鹿! 前にも言ったけどそういうことを気軽に言うんじゃねぇ!」


 以前よりはだいぶマシにはなったが、それでも彼女は時折人目や場所、相手の立場を考えずに自分の思ったこと言動にしてしまうことがある。仮にも異性である俺に「大好き」と言ってみたり、急に抱き着いてきたりなど……美しい容姿の彼女にそんなことをされたら、動揺しないというのは無理な話だ。


「そうだった! 杏にも注意されたんだった! ごめんなさい杏!」


 顔はこちらへ向けつつも、目線は俺ではなく、その向こうを見ている白花の言葉に違和感を覚えた。まるで、すぐそこに杏がいるような物言いだ。


 すると突然、背後からとても……それはとても冷たい視線を感じ、恐る恐る振り返ると、そこには俺が眠っていたソファから少し離れた場所にあるダイニングテーブルの椅子に腰を掛けながらアイスを食べる杏がいた――顔を見た感じ……非常に不機嫌なようだ。


「あ、杏? なんだ、いるならなんか言えよ」


「……」


 まずい、これは本気で怒っているか不貞腐れている時の反応だ。原因はなんだ? 思い当たるのは白花が杏に注意されたことを再びやってしまったから? それとも自分のベッドではなく白花の膝枕の上で寝てしまった俺のだらしなさ? しかし、どちらかあるいはどっちだとしても彼女があそこまで怒るとは考えにくい。


 返事1つしない彼女に白花も感じるものがあったのか、俺の背中に隠れて顔だけを覗かせて杏を見る。


「杏、怒ってる……」


「杏? なんとか言ってくれないか?」


 杏はまだ返事をしない。どうすれば彼女の機嫌が治るのかと考えていると、アイスを食べ終え、残った棒を見ながら彼女がやっと口を開いた。


「……アイス、もう1本食べたいなぁ」


 不意に訪れた、杏に機嫌を直してもらうチャンスに俺と白花はすかさず返事をする。


「もう1本食べていいぞ!」


「うんうん! 今日はいっぱい食べていいよ!」


 しかし杏は悲しげな顔をしてアイスの棒を見つめて、溜息を吐く。


「……でも、これが最後の1本だったんだよなぁ」


「私、買ってくる!」


 白花は財布だけ持って、玄関を出て行った。


 この家に残ったのは俺と杏の2人だけ。白花がアイスを買ってくまでに少しでも杏の機嫌を少しでも良くしなければ。


「杏? 他になにか食べたいものあるか? あっそうだ! べっこう飴あるけど食うか?」


「豊が寝てる間に全部食べた」


 え? 昨日たくさん作ったばかりなんですが……。


「そ、そうか……ならまた作ってくるからさ、待っててくれ」


 新しい飴を作る為に急いでキッチンへ向かおうとすると、杏が椅子から立ち上がって俺を呼び止めた。


「飴よりも、豊にしてもらいたいことがある」


「な、なんだ? 俺にできることなら何でもするぞ!」


 こうなった時の杏はいつもより我儘になり、それを叶え続けるのが彼女の機嫌を直す1番の方法だ。


 立ち上がった杏は先程まで俺と白花が座っていたソファに座り、太腿をポンポンと叩いた。


「来て?」


「え? 俺にしてもらいたい事って、膝枕か?」


「うん、駄目?」


「いや、その……」


「白花ちゃんには膝枕させてたのに、私にはさせてくれないんだ?」


「あれは白花が強引に……」


「私にはさせてくれないんだ?」


「わかった! 杏にもしてもらわせていただきますから!」


 すぐさま杏の隣に座る。白花に強引にさせられた先程とは違って今度は自分から杏の太腿に頭を乗せなければならない。しかし、恥ずかしがって時間をかけてしまうと杏の機嫌をさらに悪化させてしまう。


 覚悟を決めて体を傾けると、白花と同様にハーフパンツを履いている杏のさらさらとした肌の感触が直に頬へ伝わる。


「し、したぞ……」


「……」


 また返事をしなくなった杏の顔を見ると恥ずかしいのか、真っ赤になっていた。


「恥ずかしいなら、起きようか?」


「べ、別に大丈夫だから! それよりも寝ていいんだよ?」


「ね、寝ていい?」


「うん、白花ちゃんに膝枕してもらってたときは気持ち良さそうに寝てたじゃん」


 たしかに白花の時は疲労と体調の悪さも相まって眠ってしまったが、仮眠をとって回復した今はどきどきしてしまって、とてもじゃないが眠れそうにない。


「いや、今は眠くないって言うか……」


「私の膝枕じゃ眠れないんだ?」


「いや、そういうわけじゃ! さっき寝たから今は眠れないというか……」


「ふーん。じゃあ私と白花ちゃんの膝枕、どっちが良い?」


「い、いやその……」


 困惑する俺を見て少し機嫌が良くなったのか、杏は楽しそうに笑った。


「ふふ、ごめんね。少し意地悪がすぎたね。起きたばかりだから喉乾いてるでしょ? いま飲み物持ってくるね」


「あ、あぁ」


 俺が体を起き上がらせると、杏は立ち上がりキッチンへ向かい冷蔵庫から冷えた麦茶をコップに注いで持ってきた。


「はい、どうぞ」


「ありがとう」


 受け取った麦茶の一気に飲み干すと、杏か再び隣に座った。


「そういえばさ、江夏君っていつ結婚するの?」


「大学を卒業したらって聞いたな」


「へぇ~、相手の娘ってどんな子?」


「第一印象はとても上品な人かな。まぁ実際に家もかなり裕福で、専属の執事がいる本当のお嬢様らしいけど」


「凄いね……そんな人、この街にいた?」


「今年の春に引っ越してきたみたいだからな。っていうんだ。知ってるか?」


「え?」


 突如杏の顔が凍り付く。柔らかさが戻りかけていた表情は、先程よりも険しいものとなっていた。


「今なんて? 雅って言った?」


「あ、あぁ。知っているやつなのか?」


 そう言うと、杏は恐ろしい剣幕で俺に詰め寄る。


「豊! もしかして今日が出たの!?」


「まさか、雅のこと知ってたのか?」


「質問に答えて!」


「……出た」


 杏の顔は青ざめ、絶望に近い表情をする。


「『何もなかった』っていうのは噓だったの?」


「……悪い、杏が心配すると思って」


「なんで嘘つくの!? 思い出したら豊の心が壊れちゃうかもしれないのに!」


「そうは言ってもよ……仕方なかっ……」


「大丈夫? 頭痛くない? 他におかしいところは?」


 余程混乱しているのか、杏は俺の話を聞こうとしない。


「杏、もう大丈夫だか……」


「苦しくない!? 深呼吸できる!?」

 

「杏!」


 肩を掴み、強く杏を呼ぶと彼女はハッとした様子で我に返ったようだ。


「俺は大丈夫だから……」


「……今は大丈夫だけど、駄目なんだよ。


 絞り出すように声を出す彼女の瞳は、潤んでいた。


「杏?」

 

「……ごめん、今日はもう帰るね」


「お、おい!」

 

 走り出した杏はそのまま出て行ってしまった――。

 

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