第三十五話 ~一人の時間~


「見事に何もないな……」



 漏れ出す冷気がもったいないので冷蔵庫を閉める。共同のキッチンスペースに置かれた冷蔵庫には少しの調味料と僅かな野菜が入っているだけだった。


 まだ本格的に機能しているわけではない学生寮では住んでる学生各々が自炊をして生活をしている。

 ただし、作り過ぎて余った料理は張り紙などで個人のものだと主張せずに冷蔵庫に入っていた場合、おすそ分けとして食べてもよいというのが暗黙の決まりとして定着していた。


 目が覚めたらすでに外は完全に暗くなっていた。一日何も口にしていなかった体は空腹から来る倦怠感でとてつもなく重く、何かを買いに行くことすらだるかった。

 他人のおこぼれでもないかと期待してキッチンまで来てはみたが、卑しい目論見も完全に外れてしまった。



「水をたくさん飲んで凌ぐか?」



 グギュルルルルルルルルルルルルルルル。

 思いついた妥協案は腹の虫の大抗議によって否決された。

 エスケープ後、初めて自分の体に対して、見た目以外の理由でイラッとくる。


 リミッターによる超人化みたいな機能をつける余裕があるなら、食べないでも生活できる機能のほうをつけてくれればいいものを。人工的な肉体のくせに食事や睡眠は必要だし、痛みも感じれば、涙も流せる。果てはお腹が空けば今のように体がダルくなることを喜ぶ人なんているのだろうか。



「……いっぱいいるよな」



 少なくとも私は嬉しかったし。

 眠らなくて済んだって、夜の孤独に耐えきれる心は持っていない。

 痛みを感じなければ、運動場であいつに突っ込むなんてことにもきっとなっていない。

 食事が必要なかったら、あいつと飲むジュースを美味しいと感じることもなかったかもしれない。


 普通の人間として振る舞うことが許されたからこそ、今日まで楽しく過ごせたのだ。仮に何もしないでも不老不死として活動できる体がリターナーに与えられていたなら、こんな風に今日まで過ごせていない。

 感傷的になりそうだった頭をブンブンと振る。

 どうも私は一人だとネガティブな思考になりがちだ。



「けど、腹の音くらいはもうちょっと何とかならなかったのか。仮にも女子がグギ

ュルルって……もっと可愛らしくクゥみたいな感じに……!」



 まぁさっきの音が可愛い感じにクゥだったとしても、可愛く甘えてくるんじゃないと、結局イラッとすることに変わりはなかっただろうけど。



「仕方ない、何か買いに行くか」



 どのみち今を凌いだところで、明日の朝に今よりも強い倦怠感が待っているのは目に見えている。

 夜が明けてしまえば、おこぼれにあずかれる可能性はあるが、他人の施し目当てに空腹を我慢する卑しい奴なんて思われるのも嫌だった。


 自室に戻って手早く服を着替え、財布とスマホだけを持って寮を出る。

 外の風は冷たく、吐き出す息は白く染まっていた。おにぎりでも買ったらすぐに帰ろう。

 手袋をしてこなかったかじかむ手をポケットに突っ込みながら歩き出す。


 無人の部屋も多い学生寮が建ち並ぶせいで、夜の北区はとにかく暗かった。歩き慣れた道で街灯こそあるものの明かりの乏しい真っ暗な道を歩くのは少し怖い。


 ポケットに入れてなおかじかむ手を抜き、息を吐きかけながら歩いていて、ふと気付いた。

 そういえば夜に街を歩くのは初めてかもしれない。

 白間とは昼過ぎくらいに落ち合って夕方になったら解散するのがほとんどだったし、わざわざ夜に外を出歩くような理由も今までは特になかったから。


 スマホを取り出す。

 別に恋しくなったわけじゃない。

 ただ本当に何となく、白間に連絡してみたくなった。

 昼間はバタバタしてると言っていたが、夜なら空いている可能性もあるし、夜の仕事というのも何だか特別感が出るような気がした。


 寒さのせいではなく震える指でスマホを操作する。

 無機質な呼び出し音が何度も耳を打った。

 だが、白間は出ない。

 もしかして、夜すらバタバタしているのだろうか。

 白間にも言ったけど、昼間も夜も関係なくバタバタする個人の事情なんて、今のこの街ではそこまで多くない。

 白間のような若い男が昼夜関係なくバタバタする理由なんて、それこそ……。



『津羽音? どうしたんだ?』

「女か?」

『……男ですが』



 憎らしげに呟いてしまった言葉に困惑する白間の声が聞こえた。

 どんなタイミングで電話に出るんだあいつは⁉

 反応に困っている気配が電話越しにもひしひしと伝わってくる。ここで慌てて墓穴を掘りたくはない。あくまで冷静にしかし強引に話題を変更しよう。



「今日は良い夜だと思わないかい?」

『え? まぁ月とかはきれいに出てるけど』

「こんな夜もあるんだなと、私は少し感心してしまったよ」

『あの~……津羽音さん? あなたの口調と相まって、とても痛い子になってますが大丈夫ですか?』



 ミシッとスマホが軋む。

 まぁ、落ち着け。確かにさっきの私ではあいつがそういう感想を持つのは仕方ない。やつあたりは次に会ったときすればいい。

 冷たい風が吹いて、熱くなりかけていた私の頭を冷やしてくれる。

 風音でも聞こえたのか、白間が少し心配そうな声を出した。



『もしかして外にいるのか?』

「あぁ、ちょっと野暮用でね」

『こんな時間にどんな用事があるんだよ?』

「夜のお仕事でもしようかと」

『ぶっ⁉ おまっ、えっ?』



 変なことを言ったつもりはないが、何故か白間が盛大に取り乱し始めた。

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