第二十二話 〜裸の男の暗殺〜


 三十代くらいだろうか。

 細い目と口元にうっすらとした微笑みを浮かべる顔からは、見た目の年齢以上の落ち着きと優し気な雰囲気を感じさせている。

 だが気になることに、その服装は学生がメインである西区ではあまり見かけない黒一色のスーツ姿だった。

 しかも奇妙なことに両手にはスーツと同じく真っ黒なスリムタイプのグローブを嵌めている。



──銭湯の従業員か?



 湯上りで頭が回っていなかった莉緒は、衣服を着たままの男を前にその場で呆けて立ちつくしてしまう。

 温和そうな態度はそのままに男が更に口を開いた。



「公園でこちら側に攻撃をしてきたということは、ご自分が置かれている状況は理解できているということですよね?」



 男の左目がすぅっと赤くなり、全身の毛が逆立つ感覚がした。

 そして、呑気に銭湯へと足を運んだ過去の自分を全力で呪う。

 わざわざ自転車を使っていたのは、こういう状況を避けるためだったはず。ノリで決めて良い場面と悪い場面くらい分別をつけるべきだった。


 津羽音を助けるためには確実にリターナーと戦うことになる。

 対抗手段は自前で持っているが、切り札をそう何度も切ることになるのは出来れば避けたい。

 だから莉緒は真に色々と対抗するための道具を用意させた。


 逃げるという選択肢もあったはずなのに、公園でわざわざ真っ向から戦ってみたのもそれの確認のため。結果としてリミッターの解除はしてしまったが、事前に戦いをシミュレーションし、うまく立ち回ることが出来ればリミッター解除せずとも勝負ができることはわかった。


 そう、武器があって、対処が出来る環境ならば最悪どうにかなるはずだった。

 だが、ここは浴場という閉鎖空間であり、今の莉緒は全裸だ。腰にタオルこそ巻いているが、まごうことなき丸腰だ。

 事前に何通りものシミュレーションはしたが、浴場で全裸で戦うなんてシチュエーションは当然想定していない。


 それに加えて目の前の男は公園で襲ってきた男達とは明らかに格が違った。

 まだ何もされていないのに、まるで喉元にナイフを突きつけられているかのような、言い様のない寒気が背中に走る。



「……お名前は?」

「これは失礼。挨拶をしたのに名を名乗っていませんでした」



 ようやく絞り出せたのはそんな意味のない言葉。時間稼ぎにもならないような素っ頓狂な質問に対して、意外にも男は仰々しく礼をしながら返答した。



「私は雨切時雨と申します」

「隙ありだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」



 真の叫びと共に、礼をしていた男の体がくの字から更に折れ曲がった。

 それと同時に莉緒の足元で大量の湯がぶちまけられる。

 空の桶がカランカランと音を響かせながら転がっていき、やがて湯船にぶつかり止まった。



「ふっ……決まった」



 びしょびしょになり、地面へと倒れた男はピクリとも動かない。

 莉緒が後ろを振り向けば、そこには笑顔で何かやり切った顔をしている裸の男がいた。

 この笑っている男こそ、倒れている男はもちろんのこと、莉緒にも気づかれないようにこそこそと莉緒の背後から二人に忍び寄り、男が礼をした瞬間、その後頭部目掛けて、目一杯に湯を汲んだ桶を叩き落とすという原始的かつお手軽な方法で暗殺を成功させた張本人。

 ……正真正銘の殺人犯である。



「おい、真……これ大丈夫か? 死んでない? 後頭部に鈍器ってやばくない?」

「お前命の恩人を人殺し扱いするつもりか!」

「だって素直に喜べない状況じゃん!」

「じゃあどうすればよかったんだよ! 言ってみろよあのときの最適解を‼」

「そう聞かれたら、返す言葉もないけども⁉」



 この場は助かったわけだが、それよりも大きな代償を支払ってしまった。

 津羽音と違い、どう考えても真を庇う手だてがない。

 目撃者は莉緒しかいないわけだが、倒れている男が政府関係者のリターナーである以上、犯人が誰かなどすぐにバレてしまう。

 この男の目は赤化していたのだから、決定的瞬間は撮れてなくとも、この場に莉緒と真がいたことは隠しようがない。


 仮に真の仕業とバレなかったとしてもだ。その場に莉緒がいたという事実がまずい。津羽音と違い、現状表向きの明確な間引きの理由がない莉緒に格好の間引く大義名分を作れてしまう。

 公園の時のように記録を処理しようにも、その辺りのコンセントへと針金突っ込んで男の目に突き刺すなんて所業を見られるわけには当然いかない。


 そんなわりと本当に詰んだ状況にそれでも救いの手が差し出された。

 ただ問題だったのは、その救いの手の主が真の攻撃を受けた被害者本人だったということだろう。



「死んでいるわけではないので喜ばれてはいかがですか?」



 立ち上がりこそしてこなかったが、はっきりとした口調で生存を知らせてくる男。

 急所に一撃貰ったくせに意識が飛んですらいないとは、やはり特殊なボディを与えられているのだろうか。

 だが、今はそんなこと関係ない。

 無事の確認が取れたので、莉緒たちは素直に状況を喜ぶことにした。

 ヤケクソ気味に。



「よっしゃぁ助けてくれてありがとう真! だからさっさと逃げるぞぉぉぉぉ!」

「合点! やっぱり人間じゃないんじゃないかなリターナー‼」



 そんなわけで振り出しに戻った。

 だが、ダメージはしっかり受けているようで、雨切と名乗った男はもぞもぞと体を動かしてはいるが、立ち上がるにはまだ至っていない。


 思い切り逃走の姿勢だった二人の少年はチャンスだとばかりに宝を隠していたタオルを取り払う。

 莉緒たちがタオルを取り払った目的を察した雨切が、さっきと同じように丁寧な口調で、だがしっかりと嫌悪感を含ませた声を上げた。



「お待ちなさい少年たち、それはあまりにも下品で下劣ではないですか?」

「うるせぇ! 思春期の男子なんざ身体の半分が下品で出来てるんだよ!」

「あなた方の基準は一体どうなって……あぁそこは! そこにはこぶがあるのです! そこでタオルを結ぶのはやめてください! あぁ、あぁぁぁぁぁぁ⁉」



 悲鳴に構わず、顔と腕にギュ~とタオルを固く結んだ。

 更にダメ押しで雨切を湯船へと放り込む。タオルがもう一枚あれば足も縛れたのだが、残念なことに雨切の足は自由だ。


 視覚を奪って、湯船に放り込めば溺れさせることも可能だろうが、あの男ならば足が自由である以上、そうなる前に体勢を立て直すことだろう。

 二人は浴場から急いで脱出し、戸が開かないように、脱衣所にあった掃除用具入れからモップなどを取り出し、これでもかと立て掛ける。

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