鏡の中のあなた



 入り組んだ街中の薄暗い路地。

 そこに放置された姿見を覗き込んだのは本当にただの偶然だったと思う。


 ひびの入った鏡を覗き込んだ僕の目に飛び込んできたのは綺麗な黒髪が目を惹く、僕と同い年くらいの女の子だった。


「誰……?」


 思わず口から言葉が出た。

 鏡越しでも僕の声は聞こえているらしく、鏡の中の彼女が僕へと近づいてくる。


「あなたは?」


 同じ質問を返された。

 相手に聞くならまず自分からだと思い、僕は頭を下げる。


「ごめん。僕は──」


 名前しか言わない簡単な自己紹介。

 彼女も同じように名前だけを名乗った。

 僕もそうだったけど、彼女も戸惑っているようだった。


 鏡の向こう側に別の世界がある。


 子供の頃に空想くらいしたことがあるだろう。

 それが現実の光景として眼前に広がっていた。

 状況としてはホラーに近かったことも原因だと思う。

 名前を言ったところで怖くなったのか、彼女はいきなり背を向けると僕から離れるように走り去った。


 それが一度目の出会い。

 

 忘れてしまったほうがいい。

 正直僕はそう思った。

 また会ったところで何が出来るわけでもない。ましてや、ホラー的展開が僕に降りかかっていないとも限らない。


 次に行ったら鏡の世界に引き摺り込まれる。

 ありきたりな話だと思うけど、鏡の中にいる人を見たのだから、もう笑い話には思えなかった。


「良かった。また会えた」


 けど、僕は再び鏡の前に立っていた。

 それこそ妖に魅入られていたと言われたって仕方ない。

 僕は昨日見た女の子が忘れられずにこの場を訪れていたのだから。

 そして、僕を待っていたように、昨日見た女の子もまた鏡の中にいたのだから。

 僕を見て、彼女は少し申し訳なさそうに目を伏せた。


「昨日はごめんなさい。その……怖くなっちゃって」


 その言葉は僕を惑わす怪異などではなく、僕と同じ気持ちでこの場を訪れた一人の人間の言葉に聞こえた。


「いいよ。僕も気持ちとしては似たようなものだったから」

「今日もいるってことは、何かのドッキリとかじゃないんだよね?」

「あいにくと僕はここにいるよ。君もそこにいるんだよね」

「……うん」


 彼女は信じられないものを受け入れるようにゆっくりと頷いた。

 それから僕たちの密会が始まった。


 僕は一人だった。

 そして、彼女も一人だった。

 話せる相手がいなかったというあまり楽しくない共通点が僕たちを結んでくれた。


 決まった時間に鏡の前に行き、ほんの数分だけ話をする。

 本当はもっと話をしたかったけど、鏡越しに見える彼女の背後にはたまに彼女ではない人影が通りがかっていた。

 彼女がそれを気にする素振りを見せていたので、どちらからともなく話をする時間は短くしようと決め、僕たちの密会は続いていた。


「君は鏡に閉じ込められてるの?」


 彼女との密会が数回続いた時、僕は思い切ってそれを聞くことにした。

 それは僕がずっと聞きたかったことであり、同時に聞くのが怖くて避けていた話題だった。

 もしもこれで彼女が肯定したとして、僕に彼女を救う手段はない。

 助けを求められても僕は何もできない。


 その無力感が怖かった。

 けど、僕が何より怖かったのは、もし彼女が助けてくれる人を探しているのだとしたら、僕にその術がないことを知った彼女がここに来なくなるかもしれない。

 彼女にとって僕は必要ない存在。

 それを突き付けられるのが一番怖かった。


「閉じ込められてはいないんじゃないかな。あなたから見たら私は鏡の中にいるんだと思うけど、私はこっちの世界で自由に動けるし。まぁ、友達がいないから、あんまどこかに行こうとはならないんだけどね」


 自虐気味に笑っていたけど、僕は少しだけほっとした。

 けど、それと同時に僕の心臓がやけに早く脈動を始める。

 それは間違いなく恐怖から来るものだったけど、僕が不安に思っていた恐怖とは全く違うものだった。

 彼女が僕に手を伸ばしてくる。


「ねぇ、あなたは寂しくない?」


 きっと鏡に触れているであろう彼女の指先を見ながら、僕は彼女の質問に答える。


「別に寂しくはないよ。慣れてるだけって可能性はあるけど」

「そっか。私はね、あなたと話をするようになって、孤独って寂しいんだなって改めて思っちゃった」

「どうして?」

「話が出来る人がいるって素敵なことなんだなって知っちゃったから。私もね、一人には慣れてたつもりだよ? けど、こうやってお話が出来るようになると欲張りになっちゃうのかな。周りの人には友達がいつだっているのに私はここにいる以外は一人なんだって意識しちゃって」


 その言葉を聞いて、僕はこの運命の出会いが誰にとっての運命の出会いだったのかに気付いた。

 この出会いで何かが変わるのは僕ではないんだと気付いた。


「……それなら、話し相手を作ればいい。僕とこうやって話せてるんだから、君にとってそれは難しいことじゃないはずだよ」


 彼女の顔が曇る。


「……どうして、あなたは鏡の中にいるのかな。あなたが私と同じ世界にいてくれたらよかったのに」


 俯く彼女の声は少し擦れていた。

 それは僕だって同じ気持ちだ。

 君が僕の隣にいてくれたら……そう思ったのは一度や二度じゃない。

 ほんの数回の出会いで、それでも彼女は僕の特別になっていた。

 彼女にとっても、僕がそういう存在になれているなら素直に嬉しい。


 だけど、僕と彼女は根本的に違う存在だった。

 初めて会った時は鏡に引き摺り込まれるかもと恐れたはずなのに、僕はそれを望んで彼女の指先へと自分の指先を合わせる。



「それは出来ないよ。だって、



 コツリ……と指先から伝わってきたのはやはり鏡の感触だけだった。

 だから、僕はそのことを彼女に言うしかなかった。

 いくら親しくなっても僕たちは一緒には生きられない。

 僕にとっての彼女が鏡の中の住人であるように、彼女にとって僕が鏡の中の住人であることは決して変わりようがない事実なのだから。


 思えば、全て皮肉にまみれていたのだろう。

 僕から見た彼女は鏡に囚われているように思えたけど、結局鏡はただ役目を果たしているだけだった。

 鏡に映るのは自分の姿。

 彼女が鏡に囚われて見えた時点で、僕こそが鏡に囚われている存在だったんだと。

 彼女の幸せはここにはない。

 あの時と同じように鏡に背を向けてほしくて、僕は自分を押し殺す。


「……お別れだ。もう僕たちは会わないほうがいい」

「ちょっと待って……⁉ なんで、そんなつもりじゃないよ⁉」

「僕と君の孤独は違う。僕はここに一人だ。けど、君は一人じゃなくなることも出来る。僕に依存するのは良くない。君は君の世界と向き合うべきだ」

「違う、違うよ! 私はあなたがいてくれたから……」


 涙を流しながら、彼女は鏡に縋りつく。

 それは僕が見たくなかった光景だった。

 目を背けたかった。それ以上姿を見ていたら、決心が揺らぐとも思った。

 だから僕は──泣いている彼女から目を逸らしながら、ひび割れた鏡へと石を投げつける。

 鏡が僕たちを繋ぐ唯一の手段。これがなくなれば、彼女も僕もお互いを諦めるしかなくなる。


「君の孤独がなくなることを願ってる」


 身勝手とも言える願いを口にして、石が鏡にぶつかった。

 僕たちを繋いでいた鏡のヒビが大きくなり──鏡は砕けてバラバラに割れ落ちた。


 ※


 ひび割れた鏡の前で僕は座り込んだ。

 景色は見えない。

 割れた鏡には僕の姿もほとんど映っていない。

 けど、いつものように僕が座るなり、割れた鏡から声が聞こえた。


「良かった……今日も来てくれた」


 顔は見えないけど、聞き間違えることはない彼女の声。

 僕の行動は浅はかでしかなかった。

 鏡を割れば向こうの世界と繋がらなくなる。

 勝手にそう思い込んでいただけで、鏡が割れても僕と彼女の世界は繋がったままだった。


 そこまでしても別れが訪れなかったのだから、きっとこれが運命なのだろう。


 彼女の顔が見えなくなったのは後悔しているけど、彼女との縁を繋ぎ続ける覚悟が決まったのは良いことだったのかもしれない。

 彼女が僕を必要としてくれている。

 他に誰もいらない。僕がいればいい。

 彼女がそう思ってくれるなら、僕はこの歪な繋がりを大事にしようと思う。


 割れた鏡の前にいる彼女が果たして向こうの世界の住人にはでどう映っているのか。

 その事実から目を逸らしながら──


「もちろんだよ。僕はここにいるから、いつでも会いに来てね」



 僕と彼女の密会はこれからも続いていく。

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