傷の意味


 俺の彼女はいわゆる自傷癖がある子だった。

 何度か注意をしたことがあったけど、愛想笑いで誤魔化されて、ふと気が付けば新しい傷が増えている。

 そんな子だった。


 付き合った当初はそんなことなかったと思う。

 見えていなかっただけと言われてしまえば否定はできないが、それでも今は見ようとしなくても目に入るのだから悪化はしているのだろう。


 俺が原因。

 もちろんそう考えた。付き合う前と後で変化があったなら、それが一番可能性が高い。

 けど、どうしても俺には心当たりがなかった。



「幸せなんじゃない?」



 幼なじみの朱里はそう言った。

 同性の立場から俺の行動に問題があると思うなら指摘してくれと頼んで、昼飯を奢ることを条件に悩み相談をしてもらった。



「意味がわからないんだけど……」

「だから、きっと今までで一番幸せなんだよ」

「それとああいうのがどうして結びつくんだ?」

「ようは受け止めきれてないってわけ。幸せを十もらったとするでしょ。けど、あんたの彼女は幸せを五までしか受け止められない。じゃあ、その余った五はどうなると思う?」

「幸せだって思わないで終わる……?」

「違うよ。残りの五はね……毒になるの」


 いまいち納得がいかない。

 多分顔に出ていたのだろう。朱里は俺の奢ったパスタをフォークでクルクルと巻きながら、少しため息をついた。


「幸せってさ、必ずしも良いものとは限らないわけよ。身に余る幸福ってのは受けた側にとっては自分を蝕む毒でしかない」

「俺が重いってこと?」

「あんたが恋人に対してどういう風になるのか知らないからあれだけど、まぁしっかり愛されてるって思える程度にはちゃんとしてんじゃない?」

「それだと俺は今よりもドライになればいいのか?」

「そんな単純じゃないのが恋愛でしょ。攻略があるなら誰も苦労しないし」


 じゃあどうすればいいんだよ──とは聞けなかった。

 朱里の言うことはもっともだし、そんな何もかもを聞いて仮に現状が好転したとして、それはきっと俺の中でしこりになる気がした。

 実際、それでよかった。

 馬鹿みたいにドライにならなくて良かった。


 彼女が死んだのはそれから一年が過ぎた日のことだ。

 何もしなくても汗が出る。寝苦しい熱帯夜だった。

 調子が悪いと言われて、俺はしばらく彼女に会っていなかった。

 看病しに行くと言ったけどやんわりと断られていた。

 俺から連絡をすることはあっても、彼女から連絡が来ることはない。その返事も日を跨いで帰ってくることがほとんど。

 そんな日がずいぶんと続いていた。


 もしもいきなりこうなったなら、俺ももう少し取り乱したかもしれない。

 けど、朱里にくぎを刺されたのもあって、俺は彼女が距離を取ろうとしているんじゃないかと考えたんだ。

 本当に具合が悪いなら、きっと頼ってくれるはず。

 それくらいの自負はあったから、少し調子が悪いというのは本当で、それを口実に俺との関係を見つめ直しているんじゃないかって。

 これでフラれたらお笑いだな。

 決してあり得ない可能性ではなかった。けど、そんな風に疑ったことを今は心から後悔している。

 

 喉の渇きに耐え兼ねた俺は冷蔵庫に何も入っていなかったから、飲み物を買おうと思って外に出た。


 水道水でも飲んでいればよかったのかもしれない。

 けど、水道水を飲まなくて良かったのかもしれない。


 暑さのせいか脱水のせいかは知らないが意識が朦朧としていた。

 俺は周りを気にすることなく、道路にふらっと飛び出して──車に轢かれた。



「良かった……」



 意識を取り戻した時聞こえてきたのは、久しく聞いていなかった彼女の声。

 別に依存しているつもりはなかったし、連絡がなくても辛くはなかったが、それでも声を聞いた瞬間、俺は弾かれるように声のした方向へと振り向いた。


 真っ暗闇の中、彼女の姿だけがはっきりと見えた。

 現実の光景とは思えなかったが、この時の俺はそんなこと微塵も気にならなかった。


「久しぶりだな」

「うん、ごめんね」

「いいよ。思ったより元気そうだから安心した」


 彼女の顔が曇る。


「……ごめんね」

「だからいいって」

「ううん。これは別のごめんね」

「どういう……」

「ごめんね、いっつも嫌な思いさせて」

「…………嫌だったけどさ。その嫌ってのは俺の気分が悪くなるとかそういう嫌って意味じゃなくて…………」


 上手く言葉が見つからない。

 お前が心配だった。

 素直にそう言えればよかったのに、俺はそれを言葉にするのはどこか上っ面に聞こえるんじゃないかと思ってしまった。


「わかってる。わかってるよ。私のために言ってくれたのはすごくわかってる。だから私はね……本当に心から幸せだったの」


 彼女は俺に近づいてくる。

 何故か俺は物凄い恐怖に襲われた。

 何か受け入れがたいことが起ころうとしている。直感的にそう思った。

 だけど、逃げることも出来なくて、棒立ちになった俺に彼女がそっと抱き着いた。

 まるで彼女が俺に入ってくるようだった。



「ありがとう。私を愛してくれてありがとう。私にできるお返しはこれくらいしか出来なかったけど、最後にお礼が言えてよかった」



 ……これが俺が事故に遭って目覚めるまでに見た記憶だ。


 薄暗い部屋の中で俺はあの日のことを思い出す。

 事故に遭った俺はかなり危険な状況だったらしいが、すぐに臓器の提供を受けたことで命を繋いだ。


 ……もうわかるだろう?

 臓器の提供者は他でもない彼女だった。

 

 彼女は病に侵されていた。

 俺はそれを知らなかった。


 ドナー提供者の情報なんて本当なら知れるはずがないのに、彼女の両親が俺を訪ねて来てお礼と謝罪と共にそのことを知らされた。

 先が短いことを隠して俺と付き合っていることを彼女がいつも後ろめたく思っていたこと。

 それでもそれが言い出せない程、俺といた時間はかけがえのないものだったと言っていたこと。

 彼女の意識が完全に無くなる直前に書かれた手紙に自分の臓器を俺に移植して欲しいと書かれていたこと。

 そして、どんな奇跡か。本当に彼女の臓器が俺に適合したこと。


 彼女が手紙を書いた時点で俺は事故に遭っていなかった。

 ご両親は最後に恩返しがしたい彼女が起こした奇跡だと泣いていた。

 医者や看護師も恋人を救うために起こした奇跡だと驚いていた。

 皆が皆、口々に俺に言った。



 こんなに愛されて、君は幸せだね。



 無意識に立てた爪が俺の腕に傷を作る。

 あぁ、そうか。

 これが……しあわせか。

 受け止めきれないほどの幸せってこういうことなんだ。


 膝を抱えた。

 知らず知らずに息が切れる。

 それと同時に俺の中で鼓動が大きくなり、俺の中にいる彼女に意識が向いた。

 俺に注がれた幸せはあふこぼれて、腕にまた傷が増える。


「これが……幸せ」


 いつかこの傷がなくなればいいと思う。

 それは毒がなくなったということなのだから。

 けど、この傷はなくなったらいけないとも思う。


 だって、そうだろう?



 その傷の数こそ、彼女が俺に注いでくれた幸せの証でもあるのだから。

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