咲きかけた花は自ら手折りて
日比野 シスイ
橋の上の人
その人はまるで身投げでもしようとしているようだった。
橋の上のその人は祭りでもないのに和装をしていた。
ぼんやりと蜃気楼のようなその人に私は声を掛ける。
「もう死んでるよ」
その人が私を見る。
目を大きく見開き、信じられないものを見たような顔で、私の顔をまじまじと見てから、
「………………そうですか」
消え入りそうな声でそう応えた。
恐らくは十代後半。私と同い年くらいの若い男性はそっと目を伏せるともう一度川を見下ろした。
「僕が見えるんですね」
「あ、ちょっと待って」
私は鞄からスマホを取り出して耳にあてる。
その人は不思議そうな顔で私を見ていた。
「あなたの姿も声も周りの人には見えないから。こうしていれば私が一人で話してても変な目で見られないってわけ」
「そうなんですか?」
「あ、そっか。その格好だとスマホなんて知らない時代の人か。えっと、これがあるとね、この場にいなくても遠くの人と会話が出来るの」
「…………それは素敵ですね」
驚いている──というより羨んでいるような声だった。
そんな時代に生まれたかった。
声にならない羨望が見えた気がして、私は少し申し訳なくなる。
「今日はどうしてここに来たんですか?」
「ん~、趣味……なのかな。どうしてかわからないけど、暇な時間があったら色んな橋に行くんだ」
「……そうですか」
「あなたはどうしてここにいるの?」
死んだ人に対してあんまりな質問だと思うだろう。
けど、今までの経験上、こうやって冷静に話が出来る人なら、ここに留まる意味がないとわかれば成仏してくれることが多いことを知っていた。
「約束があったんです」
「約束?」
「えぇ。破るわけにはいかなかった。大事な約束。私はそれを破ってしまいました」
「橋にいるってことは、待ち合わせに行かなかったとか?」
「当たらずも遠からず……ですかね」
私を見る目が少し変わった気がした。
余計なことを聞くなと怒っているわけじゃない。
むしろ、私に対して後ろめたさを感じているような。とても寂しそうで、切ない眼差しだった。
「あなたは死者が見えるのですね」
思わず息を飲んで黙ってしまった私に、その人は最初と同じ質問をしてきた。
「うん。生まれつき。と言ってもちょっと特殊なんだけどね」
「どういう意味です?」
「多分ね、見える年代が決まってるんだと思う。小さい子供とかあなたよりも年齢が上くらいの大人の人は見えたことがないの。まるで特定の誰かを見ようとしてるみたいに。不思議だ、よね──」
また私の声が詰まる。
胸がギュッと締め付けられるようだった。
「……どうして、泣いてるの?」
絞り出せた私の声も震えていた。
静かに一筋の涙を流すその人は首を横に振る。
「すみません」
「……言いたくないこと?」
「……いいえ。言わなくてはいけないことだと思います」
橋の手すりに触れながら、その人はぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「僕は……ここで最愛の人と一緒に命を絶ちました。お互いに愛し合っていましたが、僕たちが一緒になるにはあまりにも障害が多かった。だから、全てを捨てて二人で知らない街に行こうと決めて。……待ち合わせたのがこの橋です」
「……行かなかったの?」
「いいえ。ちゃんと行きました。だから、僕は彼女と一緒に命を落としています」
少しだけ言っていたことと矛盾する。
当たらずも遠からず……その人は私の質問にそう答えていた。
待ち合わせて死ねているなら、私の質問の答えは否定であるべきだと思う。
それに破った約束というのもこの時点ではまだわからなかった。
「世間を知らない若輩二人の駆け落ちなど、大人にはバレバレでした。橋の上で落ち合った僕たちでしたが、すでに追手が来ていたんです。面汚しである僕たちを始末するために」
「そんな……」
「見栄を張り、世間体を保つことが何より重要だったんです。僕たちの行いはそれに真っ向から反するものでした。だから、僕たちはその瞬間にこの時代で共に生きることを諦めたんです」
その人が見ているのは現代の景色ではないのだろう。
橋をゆっくりと見回すその人の目には鉄筋ではなく、その人が生きていた時代の橋が見えている。
そう、確信できた。
「一つだけ約束を交わし、僕たちは川に飛び込みました。寒い冬の夜でしたから、意識はすぐに遠のいて、固く握り合った手のぬくもりもすぐに凍えて。最後まで手を離さずにいられたのかもわからないまま、僕たちは死にました」
「…………待って」
「そうです。僕が破ったのはこの時の約束です」
聞きたくなくて、耳を塞ぎたかった。
そんな悲しい話を知りたくなかった。
でも、それをしてしまったら、その人を拒絶するようで……。
私はただぼうっと立ったまま、今を見ていないその人の瞳を見返していた。
「生まれ変わって、今度こそ一緒になりましょう。愛した人との最後の約束を僕はこうして破ってしまいました」
整理がついているのではなく、どうすることも出来なかったという無力感のせいだと思う。
その人の言葉は淡々としていた。
「僕はこの世を捨てきれていなかったんだと思います。幸せになれなかったことも。愛した人を死なせることになった理不尽も。僕は割り切れていなかった。……疑ってしまったんです。本当に生まれ変わりなどあるのかと。次の世で本当に僕たちは会えるのかと。今のように手を取り合えるのかと。そして、気が付いた時には──僕はこの橋にまた立っていました。生まれ変わりではなく、川に飛び込んだ時と同じ姿のままで」
この世への執念は、死んでも魂をその場に縛り付ける。
地縛霊となったその人は胸が張り裂けそうになるくらい、無理をしている笑顔で私に微笑んだ。
「ここに僕しかいなかったということは、彼女は次の世で僕と一緒になることを心から信じてくれていたんだと思います」
「裏切ったとか思ってるなら、それはきっと違うと思うよ」
「僕も今日までは裏切っていたと思っていました。失望されて、もう僕たちが出会うことはないのだと」
その人がまた涙を流す。
「…自惚れと思ってください。次の世での待ち合わせに行かなかった僕を彼女はそれでも探してくれていた。生まれ変わっていないのではないかと霊が見えるようになってまで」
「……え?」
「立ち止まっていた僕が愚かでした」
止める間もなく、その人は橋から身を乗り出した。
眼下の川はそこまで深くないし、今は凍えるような季節でもない。
けど、その人が見ている川はきっと自分を殺した時と同じ川に見えている。
飛び込ませてはいけない。
またこの人は死ぬことになる。
伸ばした私の手をその人は優しく払った。
穏やかに微笑みながら、
「今日、僕に会ったことは忘れてください。次の世では必ず僕から会いに行きますから」
そう言って、その人は川に消えていった。
思わず声が出かけたけど、私はその人を呼ぶ名前を知らなくて。
払われた手を私はそっと握る。
最後に触れた手は氷のように冷たかった。
あの手を握れなかった後悔を私はきっと忘れないと思う。
だから、次に会った時私はそのことを謝ることから始めたい。
「……今度は最後まで離さないから」
覚えのない後悔をそれでも私は胸に刻んだ。
もう私が橋を巡ることはない。
だって……。
その日を境に私は幽霊が見えなくなったのだから。
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