虫の人


 私の彼氏は虫だった。

 比喩じゃない。私の彼氏は私の背丈を超す大きな芋虫だった。


「見慣れないねぇ」


 もぞもぞとフローリングの上で体を動かす彼氏を見ながら、私はそんな感想を言ってみる。


「こっちも慣れないよ。なんで芋虫なんだろ」

「良かったね、アタシが虫苦手じゃなくて。もしも虫ダメだったら、殺虫剤地獄だったかもよ?」

「正直それでもよかったけどな。こうなったときは殺してって本気で思ったし」

「やめてよ、冗談なんだから。姿が変わってもあんたはあんたでしょ」


 ある日、目が覚めたら彼氏はこうなっていた。

 虫が苦手ではなかったとはいえ、同じベッドで人間サイズの芋虫が目の前にいたのに発狂しなかったのは正直褒めて欲しいと思う。


 言葉も通じるし、食べ物はキャベツで事足りる。

 好きだと言ってくれた私の手料理を食べなくなったのはちょっと不満があったけど、違う生き物になったんだからこればっかりは仕方ない。


 そりゃ色々と変わってしまった部分はあるけれど、こやつはこやつのままなのだ。

 見た目が変わったところで別に私は気にしない。


「殺してくれなんてもう思ってない。もし俺が死んで死体が残ったりしたら、それこそお前に迷惑掛かるし」

「そういう意味で言ってんじゃないのに……」

「俺にとってはそっちが一番問題なわけよ」


 もぞもぞと足を動かして、彼氏は何故か窓際近くの壁に張り付いた。


「どしたの?」

「変体」

「なんでいきなり変態呼ばわりされなきゃいけないわけ?」

「違う。蛹になるってこと」


 言うや否や彼氏はゆっくりと糸を吐き出し始めた。

 賃貸なので壁に糸をベタベタするのはやめて欲しかったけど、人権──いや、虫権を考えれば、芋虫が蛹になるのを止めるのは重大な差別になる。


 ……なんて、冗談が思える程度には余裕があったけど、糸で体を固定していく彼氏を見て私は何故だか涙が出てきた。


「……どこにもいかないよね?」

「わからない」

「私に迷惑掛かるとかそういう理由で出ていくのやめてよ? 蝶になってひらひら出て行ったりしたら許さないから」

「俺が何の虫なのかはわからないけど、さすがに考えはバレバレか」


 もぞっと芋虫の顔が私に向く。


「人と虫じゃ一緒に生きていくのは難しい。寿命もどうなってるかわからないし、そういうのを抜きにして、今の俺は紛れもない化け物だ。お前が気にしなくてもお前以外の人間はそうもいかない。虫として生きていけるか自信はないけど、こうなったからには俺は虫として、お前は人として生きていくべきだ」

「いきなり虫になったんだよ? またいきなり人に戻れるかもしれないじゃん!」

「そしたらまた虫に戻るかもしれない。どっちにしろ、俺と一緒にいることがお前にとってのリスクになる。俺の気持ちも少しはわかってくれよ」

「……私の気持ちもわかってよ」


 ふにふにと短くなった彼氏の腕がちょこちょこ動いたので、私は彼氏に近づいていく。

 ポフッと短い腕が私の頭に乗せられた。


「……私も虫になりたい。そうしたら一緒にいられるってことだよね」

「そういう極論言うところ嫌い」

「えへへ……けど、私が虫になったら何だかんだ一緒にいてくれるんでしょ。その時は芋虫の先輩として色々教えてね」

「餌貰って飼われてた身に酷なこと言うなっての」


 頭から手が離れていく。

 少しべたつく糸が私の頭と彼氏の腕を繋いで──プツンと切れた。

 

 それから私は彼氏が蛹になっていく様子をずっと眺めていた。

 床に座って、幼虫の皮を脱ぎながら、蛹になっていく彼氏を見つめ続けた。

 やがて、蛹の下に脱ぎ捨てた皮がポトリと落ちる。


 私はそれを自分の体に巻き付けてみた。

 嗅ぎ慣れない臭いからは彼氏の名残なんてほとんどない。

 それでも少し安心するのだから、やっぱり私は少し特殊なのだろう。


 蛹になった彼氏は返事をしなくなった。

 ちょっと調べてみたら、蛹の中ってドロドロに溶けてて、それがもう一度昆虫の姿に変わるらしい。

 つまり、今彼氏は変身……じゃなくて変体してる真っ最中で話すための口もないから返事をしてくれないということなのだろう。


 早く羽化してくれないかな。

 そんなことを思っていたら眠気が襲ってきた。

 起きたら羽化してるかな?

 ……いや、そうじゃなくて、起きたら人に戻っててくれないかな。

 淡い期待を持ちながら、眠気に抗わないで私は目を閉じる。


 ──────


 光を感じて、私は目を開けた。

 閉めていなかったカーテンから朝日が差し込み、私の顔を眩しく照らしている。

 ベッドに行かないで床で寝ていたせいか、体のあちこちが変に固まってしまったらしい。思うように動かない体はまるで自分の体ではないようだった。


「まぶし……」


 光を遮ろうと手を顔の前にかざそうとした時だ。

 一晩で茶色く変色していた蛹にピシッとひびが入った。

 ほっとした。

 寝過ごして、起きたら蛹は空でした。なんてことになっていたらきっと立ち直れなかったと思う。


 蛹から蝶が出てくる映像は学生の頃に映像を見たことがある。

 友達はキモイキモイって連呼してたけど、私はその姿がどこか神秘的で美しいものに思えて目を奪われた。

 ずっと忘れていた記憶だけど、あの時と同じように蛹から出てこようとする彼氏に私の目はくぎ付けになる。

 ヒビがさらに大きくなり、蛹の中身が外界へと姿を現した。


「けほっ」


 少し咽ながら、彼氏が出てくる。

 その姿を見て、私は息を飲んだ。


「本当に意味の分からない現象だな」


 蛹から出た彼氏は人間の姿だった。

 全裸で自分の身体を見回している彼氏は纏わりつく蛹内の体液を気持ち悪そうに手で拭っている。


「……良かっ、たぁ」


 私の口から安堵の声が漏れ出した。

 彼氏も私の声に気付いて、顔を私の方へと向けてくれる。

 その瞳が大きく見開かれた。


「嘘だろ……」


 彼氏は呆然としているようだったけど、私はそんなことも構わず立ち上がって彼氏に抱き着こうとした。


「あれ……?」


 私は立ち上がれなかった。

 というよりも足を動かす感覚が昨日までとまるで違っている。

 いくら体を動かしても視界の高さが変わらない。


「ねぇ、これってそういうこと?」


 私を彼氏に聞いてみた。

 声が震えているのはきっと気のせいではないと思う。

 彼氏は静かに頷いてくれた。

 追い打ちをかけるように、窓ガラスには私の姿が反射していた。

 この時私はやっと彼氏がどういう気持ちで私と接してくれていたのかがわかった。


 もう人じゃない。

 今までのように目の前にいる愛する人と一緒には生きていけない。

 人だった頃の思い出が鋭い刃となって私の心を引き裂いていく。


「…………殺して」


 ずっとやめてと言っていた言葉が私の口から零れた。

 彼氏は私の前に座ると頭を優しく撫でてくれる。


「……そんなこと言うなよ。姿が変わってもお前はお前だろ」


 それは私がずっと彼に言っていた言葉だ。

 私の絶望がわかる彼なら殺してくれると思っていたけど、彼も私がどういう気持ちで接していたのかがわかったのかもしれない。


「俺はお前と一緒にいるから」


 抱きしめてくれる体温が心地よくて、その温もりが私の心を繋ぎとめてくれた。


 こんな形で知りたいわけじゃなかったけど、彼も私と同じくらい愛してくれていた。


 それを心から実感できたことが嬉しくもあり、私は少しだけ悲しかった。


 いつか私も人に戻れるだろうか。

 そのときにまた彼氏は虫になってしまうのだろうか。


「お腹空いた」


 私の言葉に彼氏は台所へ消えると、満面の笑顔でキャベツを一玉持ってくる。


「良かったな、キャベツはいっぱいあるぞ」


 呑気なことを言ってるが、私はふと新しい問題に気がついた。


 彼氏は料理が出来ない。

 私の料理を食べてからは市販の惣菜やお弁当を美味しく感じなくなったとかで、出来合いのものを食べたがらない。


 つまり、私が戻らない限りはこやつももれなくキャベツ生活だ。

 胃袋を掴んだ弊害が思わぬところで出てしまったけど、彼氏は気づいてないのか、キャベツをせっせとむき出していた。


「まぁ、これくらいなら俺にも出来るから、ひとまず食事面は安心だな」


 残念ながら安心じゃない。

 けど、食事が用意さえ出来れば、私の世話は出来ると思っているのかな。

 彼氏は珍しく浮かれ気味だ。


 そんな彼氏にあんたもキャベツ生活だと言うのも忍びない……。


「ほい、こんくらいでいいか?」

「……うん。ありがと!」



 だから、少しでも早く成長するために、私はひとまず山盛りのキャベツを頬張ることにしたのだった。

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