第69話 エピローグ
「ねぇ、さっきの人見た?」
「見た見た、格好良かったよね」
「雰囲気ある人だったね。声かけてみようかなぁ」
「やめなよ、ひとりなわけないって」
後ろから楽しげなひそひそ声が聞こえてくる。
きらめいた夏の海を眺めながら、私はつばの大きい帽子をかぶり直した。客船のデッキには、心地よい潮風が吹いている。
「……ねぇあの人、昨日テレビでやってたノーベル賞の人にちょっと似てない? もし本人だったらと思うとドキドキする」
「『世紀の悪女』のこと? 警官を脅して逃げたんだっけ。確かにまだ行方不明らしいけど、生きていたとしても、もうおばあちゃんでしょ?」
「分かってるよ、想像しただけだってー」
聞き慣れた足音が近づいてきて、私は振り返った。
「睦月」
太陽の光の下で、睦月がカクテルのグラスを両手に持っていた。
「ご所望のものだぞ、お姫様」
「ありがとう」
マティーニのグラスを受け取ってから、私は睦月の首を引き寄せて、長いキスをした。
デッキの片隅からこちらを見ていた女性ふたりが、そそくさといなくなる。
「こら、人前で……」
睦月が苦々しい顔をするが、本気でないことは分かっている。
「あの人たち、睦月に声をかけるつもりだったのよ。威嚇しておかないと」
「……君のその嫉妬深さは、もう何ともならないんだろうな」
「嫌じゃないくせに」
「……」
睦月は明後日の方向を見ながらソルティ・ドッグのグラスを傾け、一口飲もうとする。
「乾杯しましょ」
「ああ」
睦月と私はグラスを合わせた。
「じゃあ、乾杯」
「二十四回目の船旅に」
私は乾杯してすぐ、マティーニを飲み干す。ハーブの香りが鼻に抜けて心地よかった。この体の素晴らしいところの一つは、いくら飲んでも酔わないことだ。
「次はどこに行こうか」
睦月がデッキの手すりに寄りかかって、何の気負いもなく言った。
日差しを浴びながら少年のように明るく笑う睦月を、私は穏やかな気持ちで見つめる。
「私は、また大学に通おうかな。睦月はどうしたい?」
「俺は庭を作りたい。果物のなる木を植える」
「じゃあ、少し南の土地だね。そこそこ都会にしようか」
「ああ」
「どこにしようかなぁ」
私が手すりに肘をついてデッキから海を眺めていると、睦月がグラスを置いて、私の顔を覗き込んできた。
「いいところだったら、永住しようか」
彼の声には、もはや絶望も諦観も混じってちない。明るい希望が溢れている。
「庭にテラスを作るよ。ルイが本を読むためのロッキングチェアも。採れた果物を酒に浸けて何年も熟成させよう。それをふたりで飲みながら、庭から星を眺めたり、犬が走るのを見たりしながら暮らしたい。それで、」
睦月は、目を見開いている私に向かって、照れくさそうに微笑んだ。
「俺の恋人は、まだ、拮抗薬の処方を覚えているかな?」
「——っ、」
私は睦月の胸に飛び込んだ。私の帽子が、ひらり、と風に乗って飛ばされていく。
天高くから、透き通った風が、吹いていた。
17番目の彼女へ 南部りんご @riogon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます