第70話 堕ちる

「ルイっ」


 睦月は足を踏み出して彼女の右手を掴み、注射器を取り上げる。睦月が掴んだ注射器には、既に液体が入っていなかった。


「君は、何を!」


 ルイに詰め寄ると、彼女は右手を捕まれたまま、場違いに優雅に微笑んだ。


「あなたは、私達の死を見送るのが辛いんでしょう?」


 睦月は息を止めた。

 ルイは過去に睦月の記憶を見ている。睦月が何を見て、何を感じていたのか知っている。分かってはいても、自分が言葉にしたことがないことを言い当てられてどきりとした。


「だから、あなたのことは、私が見送ってあげる」


 ルイが何を言っているのか理解できなかった。いや、違う。理解したくなかった。

 ひとつは不老不死でなくなる薬剤。ならば、もうひとつは——


「これは五十八箇所の遺伝子変異を誘発する薬」


 ルイはいたずらっぽく微笑んで、いわゆる、と続ける。


「人類が求めてきた、『不老不死の妙薬』よ」


 睦月は、叩きつけるように空の注射器をテーブルに置いた。


「……君はっ、どうしてそう向こう見ずで直情的なんだ!!」


 殺人を偽装したことといい、薬剤の投与を決めたこといい、ルイは取り返しがつかないことを一人で決め、易々と実行する。

 そんなルイにだけではなく、睦月は、目の前にいながらルイを止められなかった自分自身にも激しい怒りを持った。


「死ねないのがどんなことか、記憶を見て知っているだろう!」


 どんな苦痛を与えられても——生き埋めになっても、腕を切り落とされても死なない。知り合った誰もが先に死に、一人残され、時代が変わっていく。

それらに睦月が絶望していることも、彼女は知っているはずだった。

 睦月に怒声を浴びせられても、ルイは静かな目をしていた。


「あなたが、人魚の肉を食べてなった不老不死とは違う。薬の処方は私の頭の中にある。あなたも私も、いつだって普通の体に戻れる」


 ならすぐに拮抗薬を投与しろと言いかけた睦月に、ルイは頭を振った。


「私には、時間が必要なの」


 ルイの瞳は、さながら夜の海だ。

 月夜のような光を纏いながら、どこまでも奥に続いている。


「いつかあなたが、次の私に会わなくても充分だと思えるときまで。あなたと一緒にいる時間がほしい」


 ルイが距離をつめてくる。睦月は無意識に身を引いたが、膝裏がベッドの縁にあたって、それ以上下がれなかった。


「私はあなたが、過去と未来の私達より、いつか『遠瀬ルイ』の私を選んでくれると信じている。——そうして私と年老いていくことを選んでくれたときは、私があなたを見送ってあげる。それとも」


 ルイが挑戦的な目を向けてくる


「まさか、臓器まで譲ったくせに、私を愛していないとでも?」


 睦月は舌打ちしたくなった。

 何を馬鹿なことを、と思う。


「愛していない訳が、ないだろう」


 苛立ち紛れに返してから、しまったと思った。言うつもりはなかった。

 ルイの顔に、みるみる歓喜が広がる。彼女の表情から虚勢が一気に剥がれていって、少女のような脆さが露になる。


「ああ、睦月」


ルイがすがりついてくる。


「やっと、やっと言ってくれた……!」


 胸に飛び込んできたルイの、感極まった声を聞きながら、睦月は自分の怒りがすぅっと収まるのを感じた。それから、首をひねる。


「『やっと』って……前に、」


 言いかけて、その時はルイには意識がなかったと思い当たった。ルイが至近距離で顔を覗き込んでくる。


「前?」

「……いや、なんでも」

「睦月」

「……」


 問い詰められて、睦月はぼそりと「君は、術後で眠っていたから」と白状した。

 ルイは数回瞬きをしてから、幸せそうにはにかんだ。そして急に体重をかけてくる。遠慮のない重さのかけ方に、睦月は後ろのベッドに倒れた。

 上に乗ったルイが、顔を寄せてくる。


「ルイ、それはやめろ」


 睦月はルイの口を手で塞ぐ。ルイが不満そうに顔をしかめた。


「なんで?私のことを愛しているって言ったくせに」

「……」


 言ってしまったことはもう回収できなかった。「……俺は君の直系尊属だぞ」

 重々しく告げると、ルイは、きょとんとした顔をした。


「え、それがどうかした?」


 睦月は耳を疑った。


「どうしたって……」

「八世代も離れているじゃない」

「それでも、血が繋がっている」明らかに倫理的でない。

「確かに法律では結婚が禁じられているけれど、それは遺伝疾患がある子供ができるのが理由でしょう。マーメイド・ジーンの治療薬はもうあるんだし、そもそも、子供を作らなければ何の問題もないでしょう?」


 睦月は言葉を失くした。そう来るとは思わなかった。

 ルイの、至極当然という態度を見ると、間違っているのは自分のような気さえした。

 人の倫理観は時とともに変わっていく。睦月の感覚が時代に追い付いていないのか、ルイが先取りし過ぎているのか、睦月には分からなかった。


「私は睦月に触りたい。睦月が嫌でないなら、やめない」

「それは、」


 睦月が十五歳のルイに言った言葉だった。こんな形で自分に返ってくるとは思わなかった。

 睦月が頭の中で考えをまとめようとしていると、ルイが噛みつくようにキスをしてきた。

 手でルイの体を押したが、のしかかってきたルイは引かない。何度も唇を合わせてくる。

 口の中にルイの柔らかい舌が入ってきたときには、睦月はもう、彼女を拒むことができなかった。ルイの身体中から発される甘いにおいに酔いながら、その背中に腕を回してきつく抱き締め、彼女の舌の感触を味わった。


 ——もし、何の問題もなかったら。


 それはあまりにも甘美な響きだった。

 彼女が身分違いの高貴な存在ではなく、未成年の義娘でもなく、自分しか頼る人間がないから妻になりたいと願った高校生でもなく。

 ひとりの女性として、自由な意思で、他の全てを——普通の人間としての生活も命も捨てて、自分だけを求めてくるなら。

 彼女の全てを、くれるというなら。

 睦月は唇が離れた瞬間に、吐息とともに言った。


「俺に、くれるのか。君の全てを」


 ルイは紅潮した顔で、あえぐように応えた。


「ええ。だから、あなたの全部もちょうだい」

「そんなもの、とっくに——」


 後が言葉にならず、睦月はもう一度ルイに口付けた。ルイは体を震わせながら受け止める。荒々しく触れても受け入れられることに、許されることに、頭が痺れるような快感を得る。

 時に聖典のように触れがたく、時にいくら触れようとも届かないと感じ、その骨の一片にも髪の一筋にさえも心を囚われ、長く焦がれた存在が——ようやく自分のものになったと思えた瞬間だった。

 何度もルイと唇を合わせているうちに、睦月は、もっと深くルイに触れたいという欲にかられた。

 ——こんな欲が自分の中にまだあったなんて、知らなかった。

 睦月はベッドから体を起こして、額に手をあてた。


「……直系尊属に許されるのは、どこまでだと思う」


 睦月が独り言のように呟くと、ルイは艶やかに微笑んだ。


「あなたが、どうしても気になるのなら」


 そして、その白い人差し指を睦月の唇にあてた。


「全部、秘密にしましょう? あなたが不老不死なことも、私が同じになったことも、あなたと私の間に何があったかも。世界には、全部秘密」


 ね? と、ルイが囁く。

 楽しげに共犯を誘うような彼女の笑顔を見ていたら、もう、全てどうでもいい気分になった。


「いい考えだ。——乗ろう」


 睦月は目を細めて、ルイの体を抱き寄せた。


「君は、結構な悪女だ」


 からかうように言うと、ルイは嬉しそうな顔をした。


「誉め言葉ね」

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