第66話 要冷蔵の荷物

 窓の外の景色を見ながら、ルイがさらりと


「御殿場に行くんでしょう。途中で横浜駅に寄ってほしいの」


と言った。睦月は一瞬、聞き間違いかと思った。


「……状況は分かっているよな?」


 半眼でルイを見やるが、彼女は涼しい顔で頷いた。


「もちろん」

「ターミナル駅は防犯カメラに写るリスクが高い。さすがにまだ警察の張り込みはないだろうが、時間の問題だ。鉄道は使わない」


 何より、この車は覆面パトカーだ。足がつきすぎる。


「ロッカーに取りに行かないといけないものがあるの。お願い」


 ルイが真剣な顔で言う。睦月が渋っていると、ルイが「防犯カメラに写っていけないのは、私だけでしょう。数字認証のロッカーだから、睦月が取りに行ってくれない?」とまで言う。


「そこまでして、取りに行くべきものなのか?」

「ええ」

「代わりのものは」

「同じものが東京駅と、大宮駅にも置いてある。でも、どこかから絶対に回収したいの」

「……」


 結局は睦月が折れた。

 横浜駅に向かう途中、睦月は車内を探った。事前に頼んでいた通り、着替え一式とニッパーが助手席のダッシュボードに用意してあった。

 睦月は警官の制服からチノパンとポロシャツに着替えて、ニッパーを手に取った。電子手錠の鍵は手に入らなかったので、力業でルイの手錠を切るつもりだった。


「これはこれで、背徳的でいいけれど」


 ルイがとんでもないことを言い出したので、睦月はすぐさま手錠を切った。切りながら、まさか嶋本春人はそういう性癖だったのかと一瞬考えてしまった。


「使ったことが……」


 無意識に疑問を口にしそうになり、睦月は誤魔化すように咳払いした。

 ルイが含み笑いをしているのに気付き、完全に失言だったと思う。 


「ふふ、気になるんだ?」


 睦月は無視して、欠片になった手錠を集め、ダッシュボードに放り込んだ。ルイはまだ笑っていた。

 横浜駅近くに車を寄せてから、睦月はルイからロッカーの解錠番号を聞き、車を降りた。

 荷物を取って戻るまで車を停めておくのは人目に触れる可能性が高いと思い、駅周辺を自動走行させることにした。十分後に降車地点に戻ってくる設定にした。

 今の状況でルイだけを車内に残すのは不安があったが、駅構内に彼女を連れていくわけにもいかなかった。

 睦月は手早くロッカーから荷物を回収した。

 荷物は、業務用と思われる保冷バッグだった。睦月が警察署から連れ出すことを見越して用意していたとしか思えなかった。

 もし自分が何もしなかったら、ルイは間違いなく服役することになっていただろう。それを見過ごすわけがないと彼女は予想した。

 結果的にその予想は正しかったが、かなり無謀な賭けだったことは確かだ。

 何かがひとつ間違えば、ルイはここにいなかった。

 睦月は車に戻ると、荷物をルイに渡した。再び動き出した車内で、ルイは荷物を大事そうに抱えていた。


「何が入っているんだ?」

「……後でゆっくり話すから」


 要冷蔵の荷物は不気味だったが、ルイが話さなそうな雰囲気がしたので睦月は深く聞き出さなかった。どうせ後で教えてくれると言うのだし、危険なものではないだろう。

今はそれより、警察署から離れることの方が大事だ。

 車は自動走行で高速道路にのり、二時間後には御殿場インターチェンジに着いた。その間、オンラインニュースを確認したが、ルイが警察署から消えたことは報道されていなかった。

 まだ警察が気付いていないのか、大失態なので報道せずに水面下で動いているのか。間違いなく後者だろう。

 インターチェンジで飲食物を購入してから、手配していた別の車を乗り換えた。

 新しい車で、睦月は運転席に乗り込む。ルイには、窓をスモークモードにした後部座席に座るよう伝えた。


「自動走行を使わないの?」

「……苦手だからできれば使いたくないんだよ。疲れたら使う」


 後部座席からルイの訝しげな視線を感じたが、睦月は気付かないふりをした。

 正直なところ、彼女と後部座席にいると、距離が近くて落ち着かなかったのだ。

 間近で見る二十八歳になったルイの姿は、昔と全く違う。体はしなやかで丸みを帯び、どこもかしこも柔らかい上に甘いかおりまでする。

 その姿で迫ってくるのだから、たまったものではない。


「昼食をとったら、少し眠ったらどうだ。警察署では休めなかっただろう。宿に入るのはだいぶ遅くなる」


 話題を変えようと、車を発進させながら言う。ルイは窓の外を見ながら、初めて行き先について考えたようだった。


「どこに行くの?」

「大阪だ。途中で何度か車を変えながら移動する。関西空港から、明日の朝一でシンガポールに飛ぶ」


 国内を逃走しているように見せかけるため、ルイの収容された警察署がある関東から移動して飛行機に乗った方がいい——というのは、逃走経路の手配をした男の助言だった。

 彼はこうも言った。


「関西空港を閉鎖するには、関東警察から関西警察に協力を仰ぐ必要がある。二十代の若い女にまんまと逃げられた関東警察は、自分の失態を外に出すのをためらうだろう。協力要請に時間がかかるのは目に見えているから、飛ぶなら関西からだな」


 睦月は警察の内情を知らないが、羽田空港の方は、タイミング悪く明日にアメリカの大統領が来日することになっていて厳戒態勢だ。どちらにせよ羽田から出国することは選択肢になかった。地方空港は便数も乗客も少ないので悪目立ちする。


「シンガポール……。東洋人が紛れるにはいい場所ね」


 ルイは学会でシンガポールに行ったことがあるはずだった。睦月は頷いた。


「シンガポールからは、船に乗ろうかと思ってる」


 ルイが顔を上げたのが、ルームミラー越しに分かった。


「大型クルーズだ。世界一周とはいかないが」


 後部座席のルイが身を乗り出して、運転席に腕を伸ばしてきた。胸元に回されたルイの腕が思ったより細くて動揺する。

 手元が狂いそうだったので、睦月は運転を自動モードにして、ハンドルから手を離した。


「悪いが……クルーズに乗るまでは手配済みだから、希望は聞けないぞ。その後は様子を見ながらどこに行くか決めるから——」

「覚えてて、くれたんだ」


 何のことかと思ったら、ルイが「世界旅行のこと」と続ける。


「当たり前だろう」


 彼女と交わした言葉を忘れるわけがない。半分呆れながら返事をすると、ルイは「うん…」と聞いているのか聞いていないのか分からないような返答をした。

 その後、三回車を乗り換えながら運転し続け、大阪に入ったのは深夜だった。

 眠っていたルイに声をかけて、起こしてからホテルに入る。

 繁華街にありふれたビジネスホテルだ。

 こういうところは二十四時間チェックインできる上、受付が機械化されているので誰にも会わずに利用できてちょうどいい。グレードの高いホテルだと、未だに受付に人がいて使いにくいのだ。

 思った通り、ホテルのフロントは照明が落ちていて人気がなかった。メールで送られていたバーコードを機械に読み込ませると、自動でルームキーが出てくる。

 部屋の中は、ツインのベッドと浴室に続く扉、小さなソファーと机しかないこじんまりとした空間だった。

 部屋の入り口近くにはボストンバッグがふたつ用意されていた。赤い方の鞄をルイに渡す。


「最低限の着替えと身の回りのものが入っているはずだ。足りないものは空港か現地で買おう」


 睦月は鞄と一緒に置いてある封筒を開けた。中には偽装パスポートがふたつ入っている。問題ないことを確認して、パスポートを自分の鞄にしまう。


「少し休もう。五時には出ることになるが、ルイは仮眠したらいい。起こしてやるから」


 ルイは少し青白い顔で頷いた。

 警察署の取り調べの後からずっと移動していて、疲れてはいるのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る