第67話 シャワーと煙草と
「シャワーを浴びてきていい?」
「……どうぞ」
なぜ聞かれるのだろうと思った。そのつもりで部屋を取っていた。
睦月はともかく、ルイの方は入浴したり、足を伸ばして眠ったりしないと心身が磨耗するだろうと思ったのだ。
ルイが浴室に入ったので、睦月は明日の航空機のチケットを取り出し、搭乗口を確認し始めた。
少ししてから水音が聞こえてきて、睦月は、遅れてルイの意図を理解した。
水音は不規則で、ルイの体にあたって流れを変えているのがわかる。扉一枚向こうでルイが衣服を脱いでいることがありありと想像できてしまい、睦月は居たたまれなくなった。
睦月は誰かとビジネスホテルに泊まったことがない。浴室の音が、こんなにも部屋の方に響くのを知らなかった。
ルイが出てくるまで部屋に居るのに耐えきれず、睦月はチケットをテーブルに置き、代わりに電子煙草を持って、同じフロアにある喫煙室に向かった。
喫煙室はガラス張りで、エレベーターとルイのいる客室の間にある。
もし誰かが来たら気付ける場所だったので、睦月はほっとして電子煙草をふかし始めた。適当に手に取ったカートリッジはライム味で、上手くも不味くもない。
ふぅ、と細く煙を吐き出した。
情報屋によると、警察は静岡で目撃情報のあった覆面パトカーの行方を探しているらしい。覆面パトカーは人に頼んで山梨の山の中に入っているので、時間稼ぎは成功した。関西空港を警察が気にしている気配はなく、まずまずだ。
今気になるのは、正直、そこではない。
「まだ風呂だろうな……」
睦月は、ルイとどう接していいのか、考えあぐねていた。
昼間、ルイに唇を塞がれたことを思い出す。それは二年前、池に落ちたルイを救命するために触れたのとは全くの別物だった。
ルイの視線の熱に、体の触れ方に、異性として求められていることを実感する。
——どうしろと言うのだ。直系尊属の自分に。
がち、と口元から硬い音がして、歯に不快感を覚えた。
無意識に電子煙草の吸い口を噛んでいたらしい。睦月は顔をしかめて電子煙草を口からひき抜き、手にぶら下げる。
「はぁ……」
深くため息をつく。
睦月にも、もはやルイは美しい女性にしか見えない。しかも長年焦がれ、どんな形にせよ慈しんできた存在だ。
どうにもなり得ないのに、彼女に求められると浮き足たち、触れたくなる自分がいた。
こんな状態で、ルイを連れて——少なくとも数年は過ごさないといけない。世間が彼女の所業を風化させるくらいの時間は。
気が遠くなるような話だ。
おかしな話だが、ルイが生まれるまでの百年近い年月も、ルイを遠くから見ていたこの十三年間も、またたく間に過ぎていった。
なのに、この後ルイと数年いることが途方もなく長く感じる。数年後にまた社会に戻すことを考えればなおさらだ。
「何の苦行だ、これは……」
心がざわめく。
動揺をルイに気取られてはいけない。ルイが浴室から出るまでに、持ち直さなければ。
こちらが揺らぐ素振りを見せたら、ルイは絶対に諦めない。ルイのこれまでの言動から、それは断言できた。
「くそ……」
自分に悪態をついて、気分を変えようと電子煙草を口に咥え直したところで、廊下から足音がした。
スリッパなのか、パタパタという音だ。客席の方からの音なので特に警戒せずに眺めていると、ガウン姿のルイが視界に入る。
「よかった、いた」
心底安堵したような声を出すルイの頬は幾分血色を取り戻していた。
ルイの髪はまだ濡れて、膝丈のガウンから素足が覗いている。しかも、サイズが大きいのかガウンの合わせ目から白い胸元が覗いている。
睦月は煙にむせて咳き込んだ。
「大丈夫?」
ルイが喫煙室に入ってこようとしたので、睦月は手で制した。有害物質が舞っているところに彼女を入れるわけにはいかない。
喫煙室から出て、「そんな格好で部屋の外に出るんじゃない」と音量を押さえた声で言うと、ルイは何を言われたのか分からないという顔をしていた。
廊下で会話すると他の客室に響くので、睦月はルイと部屋に戻った。
ルイはシャワーから上がってすぐに部屋から出てきたらしい。睦月はベッドの上に置かれたタオルを、ルイに突き出すように渡した。
睦月の仕草に苛立ちを感じ取ったのか、ルイはタオルを受け取りながら眉を下げる。
「ごめんなさい、いなくなったのかと思って」
「なぜそんなことを」
明日には一緒に飛行機に乗ると話したばかりだ。
「航空機のチケットが出してあったから」
ルイがテーブルに目をやる。つられて睦月もテーブルの上を眺めた。
テーブルの上にはチケットが二枚目、きれいに並べてある。
確かに「ひとりでこれに乗れ」というメッセージだと誤解されてもおかしくない。一刻も早く部屋から出たかったので、そこまで考えが至らなかった。
「……驚かせて悪かった」
ルイは、自分が姿を消すのに怯えているのだと気付いた。十三年前も、傍にいると言いながらルイからは接触できない場所にいたのだから、当たり前かもしれない。
睦月としては、隣にいないだけでずっと傍にはいたのだが、彼女からすれば「消えた」という感覚だったはずだ。
濡れた髪をタオルで包み、心許なさげにベッドに座るルイを見ていたら、罪悪感が込み上げてきた。
どんな気持ちだったか分かるかと罵られるよりも、今にも消えてしまいそうな気配のルイを見ている方が堪えた。
「……君を連れ出したのは俺だ。今度は何も言わずにいなくなったりしない。約束する」
ルイが顔を上げて、顔を綻ばせる。まさに花のような笑顔だった。
睦月は彼女から目をそらした。
「煙をかぶったから、俺もシャワーを浴びる。これを」
睦月はルイにドライヤーを手渡した。これで水音の気まずさは多少緩和されるだろう。
ルイがドライヤーを使い始めてから、睦月はシャワーを浴びた。
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