第65話 警察署からの奪還

「廊下と室内、駐車場のカメラをハッキングして、三十分前の映像と差し替える。限界は十分だ。カメラの撮影範囲を考えると、五分以内に車を発進させろ。極力声は出すな」


 警察署のトイレで、睦月が渡された警官の制服に着替えている最中、「協力者」が早口に説明した。

 「協力者」は帯銃していた。まさかの、現役の警官だった。

 驚いたのが顔に出ていたのか、警官が睨んできた。


「言いたいことがありそうだな」

「……いや。協力感謝する」


 睦月は上着に腕を通して、着衣を完了した。警官は建物の見取り図と車の鍵を差し出してきた。


「見取り図はこの場で覚えろ。『対象』のいる部屋の東側の裏口に覆面パトカーが用意してある。車に乗って警察署から出たら、覆面モードにしろ。制服は本物じゃないから、適当に捨てろ」


 パトカーは、ボタンひとつで車の外装を変更できる仕様らしかった。最近は日替わりで外装を変える人もいると聞く。

 睦月は頷いた。幸い、警察署内は複雑な構造ではない。


「質問は?」 

「ない」


 警官が見取り図をポケットにしまった。睦月が今後拘束されるリスクを考えると、内部資料は渡せないのだろう。


「行くぞ、ついてこい。誰かに会ってもしゃべるな。怪しまれるから、顔は上げておけ」

「分かった」


 トイレから廊下に出る直前に、不意に警官が足を止めた。

 睦月もつられて足を止めると、警官は実に人間味のある顔を睦月に向けていた。


「……俺の母親は培養腎臓のおかげで透析のいらない生活になった。息子は馬鹿をやらかして肝臓が破裂したが、X因子の治療で治って今はピンピンしている」


 睦月は黙って耳を傾けた。

 ルイの公表したミミックX因子は、今ではマーメイド・ホルダーのみならず、広く治療に応用されている。


「遠瀬博士がよしんば本当に人を一人殺していたとしても、お釣りがくる。あの頭脳が今後、刑務所で石鹸やら洋服やら作るのに使われるなんて吐き気がするね」


 どうやらそれが、警官が「協力者」になっている理由らしい。

 ——ルイは、その類いまれな性質に、幼少期から差別され、苦しんでいた。大人になっても人に溶け込むのに相当の苦労をしただろう。

 それでも、もがきながら努力を続け、数々の成果を生み出した。その成果が彼女に、社会的な居場所を与えた。容疑者となっても、「博士」と敬称で呼ばれるほどに。

 そうして得た居場所を、ルイは捨てた。


「……」


 睦月は言葉に詰まったが、もとから反応を期待していなかったのか、警官は「行くぞ」と歩みを再開した。

 連れていかれた扉は、窓がなく固く閉ざされていた。

 警官が腕時計型端末で時間を見せる。ここから五分だという意味だろう。

 睦月は頷いた。それを見て警官が扉の鍵を開ける。


 室内には、彼女だけがいた。

 テーブル一台と椅子二脚だけが置いてある殺風景な部屋の中で、ルイは瞑想しているかのような静けさで、視線を落として座っていた。

 この場に全くそぐわない優雅さに、静謐さに、睦月は目を奪われる。美しいとすら思った。

 隣に立つ警官が肘で小突いてきて、睦月ははっとした。時間がない。

 睦月はルイに近づいた。

 ルイは視線を上げない。その横顔が赤く腫れているのに気付き、睦月は無意識に目をすがめた。取り調べ中に殴打されたのだろう。

 ルイの両手は手錠で拘束されていたので、腕を掴んで立ち上がらせた。ルイは特に抵抗することもなく椅子から立ち上がる。

 睦月は「協力者」の前を横切り廊下に出た。

 廊下つきあたりの扉、あれが東の裏口だ。走りたいが、ルイを力任せに引くと転倒するかもしれない。

 睦月はルイの顔をちらりと見た。

 彼女は周囲に何の関心もないかのように、視線を落としてされるがままになっている。

 その顎に手を伸ばし、こちらを向かせた。

 至近距離でルイと目が合う。


「……走るぞ」


 無声音で告げると、ルイの瞳に悦びが広がるのが分かった。

 そんな、顔をするのか。自分が来たことで。

 緊張と、怒りと、悦びとで心が揺さぶられる。睦月は叫びたくなるのをこらえて、ルイの腕を引いた。まずは脱出が先だ。

 走って裏口を出ると、数メートル先にパトカーが停まっていた。周囲を見渡して人気がないのを確認しつつ、車の後部座席にルイを押し込む。続けて睦月も後部座席に体を滑らせた。

 車のドアを閉めると自動運転装置が行き先を音声で尋ねてきた。


「御殿場インターチェンジ!」


 言ったとたんに車が走り出す。睦月は車の操作パネルに触れ、後部座席の窓ガラスをスモークモードにした。

 車が警察署から充分離れたのを確認して、パトカーの覆面モードをオンにする。あとは自動運転任せだ。ようやく息を吐き出す。

 睦月は額に手のひらをあて、高ぶった感情を落ち着けようとした。

 そうしないと、今すぐルイをどうにかしてしまいそうだった。

 それを知ってか知らずか、ルイが首もとに飛び込んできた。


「睦月。会いたかった」


 ルイのとろけるような口調に、首筋がぞくりと震えた。

 ルイに呑まれそうになる前に、睦月は彼女の手首を掴んで、身体から引き剥がした。

 その手首を手錠ごと車のシートに押し付ける。

 頭の上で手首を押さえつけられ、蝶の標本のようにシートに縫い付けられたルイは、瞳に揺らめくような光を宿して微笑んでいた。

 覆い被さるようにしてルイを見下ろしながら、睦月は、ルイはこんな人間だったろうか、と思う。

 十三年ぶりに会うルイは、前とは全く違う危うさと、毒のような甘さがある。


「……ルイ。なぜこんなことをした。何をしたのか、分かっているのか?」


 自分では幾分冷静になったと思っていたのに、喉から出た声は激昂をはらんでいた。


「刑務所に入っても、入らなくても、もう元の生活はできない。分かっているのか!?」


 ルイに対して声を荒げたのは初めてだった。ルイだけでなく、これまでの「彼女」達に対してもだ。

 ルイはマーメイド・ジーンの疾患から生き延び、依り代としての力を失い、ようやく普通の人間らしく暮らせるようになっていた。

 それは、睦月が長く、途方もなく長く、望んでいたことだった。


「もちろん、分かってる」


 ルイは夢見るような口調だった。


「それでも、あなたに会いたかった」


 睦月は、ルイに二度と会わないつもりでいた。

 ルイが嶋本春人と婚約すると知ったとき、感じたことのない、得体の知れない苦しさがあった。息ができないような、体の一部を失ったような感覚があった。

 それでもいいと思っていた。

 ルイが池に落ちて命が危うくならなければ、生涯近寄らないつもりだった。


「俺が、どんな気持ちで……」


 ——もはや、他の男に嫁ぐルイを、心穏やかに見送ることはできなかった。その意味を、睦月は分かっていた。

 一度求められれば、それを知らなかった頃には戻れない。


「睦月」


 ルイが起き上がろうとしたのが分かった。睦月はルイの手首を離して、顔を背けた。

 彼女に今の顔を見られたくなかった。

 ずっと真摯に彼女達の幸せを願っていられると思っていた。それが自分に残された、唯一の人間らしさだとも思っていた。

 それが今は、身勝手な欲にまみれている。


「……睦月」


 ルイの声が蠱惑的に響く。

 感情を抑えながら、ゆっくりと顔を向けると、強く肩を引かれた。何かと思ったら、ルイが顔を寄せてくる。


「ルイ、」


 わめこうとした口を唇で塞がれる。その感触に、至近距離のにおいの甘さに、めまいがした。

 とっさにルイの体を離そうとしたが、彼女は狭い車内でますます柔らかい体を押しつけてくる。それどころか、唇の間からあたたかい舌を差し入れてきた。

 本気でルイの体を押すと、ルイはようやく唇を離した。

 睦月は息を整えながら、少しでもルイから距離をとろうとドアに背中を預けた。

 ルイも息を乱していた。その頬がほのかに染まり、色めいている。それでいて瞳には、責め立てるような気配を称えていた。


「私の幸せは、私が決めるもの。私の幸せは、あなたが言うような『普通の暮らし』じゃなかった」


 彼女は自分に激しい怒りを抱いているのだと、初めて気付いた。

 遠目から見て、ルイは仕事で成功し、友人も多く、破談にはなったが一時期は恋人もいて、幸せに暮らしているのだと思っていた。

 だから睦月は、自分の選択は正しかったのだと信じていた。


「あなたこそ、私が目覚めてからどんな気持ちで過ごしたと思っているの? あなたを諦めるためだけに、他人の真似事をしていた私の虚しさが想像できる? どんなに真似をしても、決して周囲と混じり合えないと分かっていても、そうせざるを得なかった私の気持ちが!」


 十三年。

 言葉も視線も交わさない間に、ルイは少女から女性になった。

 あの頃、彼女が自分を求めたのは少女ならではの不安定さ故だと思い込んでいた。それが間違いだったと、認めざるを得ない。

 ルイは、十五歳の頃のまっすぐな気持ちのまま、火のような苛烈さと花のような艶やかさを備えて、睦月の心に飛び込んでくる。


「私の幸せは、あなたといること。それさえ手に入るなら、他は何もいらない」


 強い瞳に見据えられて、逃げられないと思った。

 ——彼女から離れるなんて、もう無理だ。

 睦月は体を折った。自分の腿の上に膝をつき、大きく息を吐く。


「……どちらにせよ、もう、元の生活には戻れないのだから」


 頭上から、微笑みを含んだルイの声が降ってきた。


「私を、連れて行ってくれるんでしょう?」


 悪魔のような囁きだな、と思った。

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