十二章 17番目の彼女
第64話 ルイの偽証
ルイが、マーメイド・ジーンの根本治療薬の開発に成功したことは、嫌でも睦月の目に入ってきていた。
国際的な賞を受けたことで、メディアで連日連夜報道していたからだ。
脳神経細胞が多いからというだけではなく、努力し続ける忍耐力も、失敗をものともしない精神力も含め、彼女は間違いなく天賦の才を持っている。
睦月は新宿の雑踏で、ビルの壁面に設置された大型投影機を見上げた。今日、ルイは渋谷の大ホールで講演をしている。その様子が、ニュースで報道されていた。
「遠瀬ルイ博士の研究は、世界でも画期的な治療薬の開発に貢献しました。ここからは、ライブ映像をお送りします」
画面が切り替わり、マイクに向かうルイの姿が大写しになる。
ルイはライトの光に包まれて、真っ直ぐ前を見ていた。堂々たる佇まいだった。
睦月は、遠いな、と思った。
華々しい道をゆく彼女と、人目を避けて生きる自分はあまりにも遠い。かつては受け入れられたその遠さが、今は胸に雪が積もるように冷たく感じる。
彼女と自分の人生は、もう交じりあうことはない。
これが最善だと信じている。両腕に抱いた彼女のぬくもりが、体に残っていても。
睦月は大型投影機に背を向け、歩き始めた。
「——この賞を、私を支えてくれた父と、そして、私の命の恩人であり、マーメイド・ジーンの始祖である『彼』に捧げます」
睦月は足を止めた。
聞き間違いだと思いたかった。
大型投影機を振り仰ぐと、ルイは何かを超越したような笑みを浮かべていた。
自分に笑いかけているのだと、直感で分かった。
「私のX因子は、彼から移植された脳組織に由来します」
ルイが話すうちに、歩行者が次々に歩みを止め、映像を凝視するようになる。雑踏が静止し、沈黙する。
異様な光景だった。
「彼の遺体は、SMH財団のスーパーフリーザーに保管してあります。フリーザーの鍵は、今朝、警察署宛に郵送済みです。私の言っていることが事実であることを、警察の方が証明してくれるでしょう」
——ルイ。
睦月の呟きは、周囲の異常な空気に吸い込まれて消えていく。
「新薬を開発できた今、私は社会での役割を全うしました。ここからは、個人として、贖罪に生きたいと思います。生き延びたいがために、愛する人の脳を奪った私を、司法がどう裁くのか。見届けていただければと思います」
ルイはきれいなお辞儀をした。直後、画像がぶつりと途切れ、画面は真っ黒になった。
とたん、周囲にどよめきが生まれる。
「え、どういうこと?」
「今のって…殺人事件ってこと?」
「ドッキリかな」
「ノーベル賞はどうなるの?」
口々にわめく人々の波を、睦月は素早く突っ切った。
——ルイという人間を、侮っていた。
いや、正確には、読み違えていた。
聡明で、冷静で、理性的に思えたルイが、こんな箍が外れた真似をするとは、微塵も思わなかったのだ。
睦月は腕時計型端末で電話をかけた。
「もしもし。SMH財団の捜査状況を調べてくれ。今すぐだ」
「遠瀬ルイ容疑者が、遺体遺棄で逮捕されました。ノーベル賞受賞者の逮捕は史上初となります。警察は殺人の容疑で捜査を進めており、十三年前に脳移植手術に携わった医師の証言があるという情報が——」
「本日、SMH財団と遠瀬容疑者の自宅に家宅捜査が入りました。発見された遺体は、成人男性の体の一部と思われ——」
「これは前代未聞です。科学者が重大な犯罪をに手を染めるという、社会の信頼性をゆるがすような出来事であり——」
街角の大型投影装置から次々にニュースが流れていた。
ルイが警察に逮捕されたのは、講演会の直後だった。会場の外に待機していた警官に拘束された。
自分は生きている。完全に冤罪と分かっていて、ルイが刑務所に入るのを眺めていることはできなかった。
「警察署に勾留されている遠瀬ルイを回収したい。できれば死人が出ない方法で」
睦月は「コーディネーター」と名乗るに男に要望を告げた。
ターミナル駅からすぐの立地なのに人のいない喫煙ルームで、睦月と男は並んで煙草を吸っているふりをしながら、小声で話す。
睦月はサングラスを、コーディネーターは帽子を目深に被っていて、お互い素顔は見えない。
この男は変わり者で、どんなに金を払っても、気に入らない案件は引き受けない。顔を見られたくないのはお互い様なはずなのに、こうやって依頼の内容を直接聞き出してくる。
しかし成功率はほぼ百%なので、なんとしても彼に引き受けてほしかった。
今回の要望が、無茶なのは重々承知だ。
コーディネーターはにやりと笑った。
「これまた、すごい依頼だな。時の人だ」
「……」
「回収までは請け負えるが、その後は保証しかねる。あれだけ派手に挑発されて、警察はいきり立っているから、沽券をかけてどこまでも追ってくるぞ」
ルイを回収した後の逃走経路は、別の人間に依頼して確保してあるが、それを言うつもりはなかった。
睦月は電子煙草の煙を吐き出す。レモンフレーバーが舌に残った。
「構わない。頼めるか」
「依頼の理由を教えてもらおう。それが面白かったら受ける」
「……」悪趣味だ。睦月はため息をついた。「遠瀬ルイは、人を殺して遺体をバラバラにするような人間じゃない。人道的にも、コストパフォーマンスという意味でも」
自分が生きているというのが一番の理由だったが、スーパーフリーザーから発見された遺体が他の誰かのものでないというのも、ルイの経歴を知っていれば容易に予想できる。
「彼女は移植用臓器の体外培養で、三年前に再生医学博士号をとっている。その気になれば腕でも心臓でも人工的に作れるだろうさ」
ルイの四つ目の博士号の論文は、「幹細胞を用いた臓器及び器官の三次元培養の手法と、培養組織の特性」だ。
睦月は、ルイの作った論文の全てを読んでいる。細胞から培養組織を作る研究は古くからごまんとあるが、ルイの研究は、幹細胞とX因子を反応させることで、発生由来が大きく違う組織を——例えば腕なら骨と筋肉と神経と血管を一度に作り、元の組織と同じ形にし、機能を付与するという画期的なものだった。
ルイの研究によって、ほとんどの臓器移植はドナーからではなく培養臓器で行われるようになっている。
警察の持っている化学調査班レベルでは、人の組織なのか人工組織なのかは見分けがつかないだろう。
「へえ。でも、絶対に無罪にはならないだろうな」
コーディネーターの嘲笑うような声に、睦月は頷いた。
ルイはメディアを利用しすぎた。警察組織は世間の秩序を守るために、大々的に犯罪を告白したルイを、決して釈放しないだろう。
たとえ自作自演の可能性があっても、死に物狂いで有罪に持ち込むに違いない。
「取り戻したい。依頼を受けてほしい」
睦月が言うと、ふと、コーディネーターが笑いを納め、納得したように煙を吐いた。
「ああ。あんた、あの嬢ちゃんの相手か」
画面越しの、ルイの言葉が、真っ直ぐな目が蘇る。
『生き延びたいがために、愛する人の脳を奪った私を、司法がどう裁くのか。見届けていただければと思います』
心臓を射抜かれるような、強烈な愛の言葉だった。
思い出す度に、息もできない程に。
「……依頼に必要だと言うから話している。これ以上こちらの事情に首を突っ込むとろくなことにならないぞ」
コーディネーターは手をひらひらさせた。
「分かったよ。面白かったから受けよう」
それから男はどこかに電話をかけ、何やらぼそぼそと短く会話してから、電話を切った。
「三時間後に○○警察署の地下一階のトイレの個室に行け。協力者が制服と車のキーを渡してくるはずだ。俺が関わるのは、警察署の扉を出て、車に乗るまで。それからは頑張りな。報酬は前払いだ」
男はそう言い残して、ふらりと喫煙ルームから出ていった。
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