第63話 私が人生を賭けて欲しいものは

 睦月が私の目の前から消えた理由は、優が知っていた。

 それを聞いたのは、私が池に落ちて病院に運ばれた後。病室に血相を変えた優が駆けつけてきたときだった。


「……睦月が、私を助けたの」


 それだけ言うと、優は、痛みに堪えるように顔を歪めてから、


「そうか。やっぱり、そうなんだな」


 と、感じ入るような声で言った。

 そして私は、睦月が言い残した言葉を知った。

 正しく愛せない、だから隣に居られない。

 なんとも睦月らしいと思った。


「優は知っていたの? 睦月が傍にいることを」

「なんとなく、そんな気はしていたんだ。彼が、ルイに何かあったときに手助けできないような距離にいるとは、考えにくかった」


 ただ、ルイは前を向いているようだったから言わなかったのだと。目を伏せながら、優は続けた。


「……そう」


 優の気持ちは良く分かった。

 睦月が本気で身を隠そうとしているなら、私には見つけられない。手の届かないものを求め続ける娘を見るのは辛かったのだろう。

 睦月を取り戻すなら、彼が出て来ざるを得ない状況を作るしかない。それは正攻法では無理だ。


「優、ごめんね。結婚はしない」


 私がはっきり言うと、優はもちろんとばかりに頷いた。


「ルイを危険に晒すような男と結婚することはない」


 私はゆっくり首を振った。


「……春人でなくても、誰とも、結婚はしない」


 優は息をのんだ。そして私の表情を伺いながら、慎重に尋ねた。


「彼を、探すのか」

「……」


 私は目を閉じた。

 あのきらめいた夏が、何者でなくても許された日々が、骨の髄まで愛されたような感覚が、私の魂を捉えて離さない。

 睦月の形に空いた穴は、彼でしか埋まらない。

 私が微笑んで見せると、優は、「……そうか」とだけ言った。


 私はこの時、決意した。

 睦月を取り戻すためなら、どんなことも——目を背けたくなるほど愚かな行いも、やり遂げると。



 二年後。

 私は、マーメイド・ジーンを不可逆的に抑制する薬剤の開発に成功した。

 マーメイド・ジーンによる疾患の、根本治療薬だった。

 ようやく。ようやく、ここまで来た。

 私は注意深く機会を待っていた。チャンスは一度きり。絶対に間違えてはいけなかった。

 新たな治療薬に世間がわき、私に最大の注目が集まったとき。それでいて、治療薬が社会に認められ、その効果に誰もが疑問を持たなくなったとき。

 私が消えても、社会的に失墜しても、薬剤がこの世から失われないと確信できたとき。

 ——その講演会は、大ホールで開催された。

 機はやってきた。


「ルイ。よくここまで頑張ったな」


 登壇する直前、舞台袖で優が私に声をかけてきた。優の目はどこまでも穏やかで、凪いでいる。

 優にとっても、根本治療薬は長年の夢だった。私と一緒に新薬を生み出した優は、憑き物が落ちたような、さっぱりした顔をしていた。


「優……」


 会場はざわめいていた。残された時間はあまりない。

 私は口を引き結んでから、優に腕を伸ばした。


「お父さん」


 優を父と呼ぶのは初めてだった。優は驚きながらも私を抱き止める。


「私を引き取ってくれて、育ててくれてありがとう。優が私の個性を認めてくれて、ずっと見守られて、本当に幸せだった」


 過去形で言ったことに気づいたのか、優の体が硬くなる。


「恩を仇で返す私を、どうか許して下さい。私のことは、死んだものと思ってほしい」


 優が私の腕を掴んで、私の体を引き剥がす。優の手は微かに震えていた。


「ルイ、何を……」

「——私が人生を賭けて欲しいものは、一人だけだった。努力しても、代わりを探しても、どうしてもどうしても、諦められなかった」


 壇上から、私を呼ぶ声がする。


「だから、他は捨てることにしたの。ごめんなさい。お父さんの幸せを祈っています」


 優の腕からするりと抜けて、私は登壇する。優が私を引き留めようと腕を伸ばしたが、横からきたスタッフに制止される。


「——それでは、この研究の最大の功労者、遠瀬ルイ博士からのコメントです!」


 私は壇上の中央にあるマイクに向かって、ゆっくり歩いていく。

 もし失敗したら。それを考えると指先が冷たくなり、自分の考えを打ち消すように、首元に下げている記録媒体の感触を指で確かめた。

 睦月はこの記録媒体を私に残していった。何も残さず霞のように消えることもできたはずなのに、そうしなかった。

 そこに、彼の本心があると思いたい。

 私はマイクの前に立ち、大きく息を吸う。


「ご紹介いただきありがとうございます。この研究は、決して私ひとりでやり遂げたものではありません」


 しん、とした会場内に、私の声が響く。誰もが私の一挙手一投足に注目していた。

 これは、人生をかけた賭けだ。


「この賞を、私を支えてくれた父と、そして――私の命の恩人であり、マーメイド・ジーンの始祖である『彼』に捧げます」


 会場の中が、一気にざわめきに包まれた。

 私は鼓動が速くなるのを感じ、深呼吸する。


「新薬の開発は成されました。私は皆さんに、本当のことをお伝えしなければなりません。『如月型』である私が、腫瘍のリスクから逃れ、現在もこうして生存している理由です」


 壇の端に立つ司会者が、打ち合わせと違うことを話し出す私を見て、目を剥いていた。そして駆け寄ってきた運営スタッフと小声で話し始める。

 止められる前に言いきらなければ。


「皆さんは、私についてのある噂を聞いたことがあるでしょう。——私のX因子は、マーメイド・ジーンの始祖に由来するのではないかと。それは、事実です。私のX因子は、彼から移植された脳組織に由来します」


 聴講席の最前列に陣取っている取材陣のカメラが、ずらりと私に向く。取材陣から、大きな声が飛んできた。


「マーメイド・ジーンの始祖が不老不死という噂は、本当なんですか?」


 会場が一層ざわめく。もはや講演会の体を成していない。

 狙い通りだ。私は悠然と微笑む。


「いいえ。冷静に考えて下さい。中枢神経である脳を摘出して、生き長らえる生命がこの地球上に存在すると思いますか?」


 会場の空気が、すっと冷たくなった。


 ——さあ。

 私のこの姿を、この言葉を、世界中に届けてもらおう。


「彼は私に脳組織を譲ったことで、十三年前に亡くなりました。彼の遺体は、SMH財団のスーパーフリーザーに保管してあります」

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