第62話 婚約
春人は、これまで私が知り合ったどんな人間とも違った。私が何も取り繕わず、作り笑いやお世辞を言わなくても、私の言動を面白そうに眺めていた。
その後も、度々食事に誘われた。いつものように嫌悪感がないからという理由だけで、私は軽く応じて出かけていった。
春人と何度も会って話しているうちに、彼は、私と似ているのだと気づいた。
春人も私も、基本的に他人に興味がない。だから友人を作ったり、他人と雑談したりすることにあまり意味を見出せず、作業的になる。
「正直言うと、社長の息子という立場は、便利ですがやや面倒です。取引先の人の趣味と家族構成と嗜好の一覧を、誰かが作ってくれれば楽ですね」
春人は、レストランのテーブルの向かいで、軽口のような調子でさらりと言った。
春人は立場上、交渉事とプライベートの時間が地続きになっているようで、私よりよっぽど「普通の人らしく」振舞うのが上手いようだ。
けれど私と話すときは、意識的なのか無意識的なのか、会話の端々に価値観が滲み出ていた。
その話をしたのは、照明の控えめな、個人経営のフレンチレストランだった。
春人は、席の間隔が広いか個室で話を聞かれる心配がなく、食事が美味しく、雰囲気がいい店を次々提案してくる。よくこんなに店を知っているものだ、と私は驚嘆すらしていた。
「でも、ルイさんの趣味なら知りたいですね。何がお好きですか? あ、もちろん仕事以外ですよ」
「天体観測が好きですね。自宅に望遠鏡があります」
「それは素敵ですね。いつか招いてくれる日を楽しみにしておきます」
「……一人暮らしの部屋です。狭いので、人を招くような家ではありません」
彼が、私の何に興味を抱いたのか、具体的には考えたくなかった。
テレパス・システムを見る私に興味を持った——その言葉の意味は、私の心の中の、触れられたくない奥底にある。
私はワイングラスを意味もなく傾けてから、口を開く。
「そういえば、週刊紙に載りましたね。さすがに目を黒塗りされたのは生まれて初めてです。プライバシー侵害で訴えたら勝てると思います?」
春人も相当な有名人なようで、先日、「恋多き嶋本製薬の御曹司、ついに本命の恋人?」という頭の悪そうな見出しの記事が週刊紙に載っていた。
心外だが、私と春人がレストランから出た直後に並んで歩いている写真だった。
春人は、あっけらかんと笑った。
「勝てますが、かなりの時間と体力と金銭を消費します。割に合わないと思いますよ」
「ご経験が」
「まあ、何度かは。彼らもこりないですね。ルイさんの仕事に影響しないといいんですが。大丈夫そうですか?」
「私は……」
一瞬だけ。もし週刊紙をあの人が目にしたら、と思ってしまった。
私はすぐその考えを打ち消した。
「問題ありません。人気商売ではないので」
口から出た声は、自分で思ったよりも硬かった。それに気づいていないわけはないだろうに、春人は満面の笑みを浮かべた。
「ならよかった。では、記事が本当になっても大丈夫ですよね?」
「……またそんなことを言って」
春人はことある毎に、結婚を前提に付き合って欲しいと言ってくる。
私は毎回それをかわしていた。春人の目に熱がなく、本気とは思えなかったからだ。
「言っておきますが、僕は本気ですし、勝算のない勝負はしないですよ」
自分の考えを読まれた気がして、私は口を引き結んだ。
春人はゆったり微笑んだ。
「ああ、そんな顔はしないでください。今は、僕と会う時間が悪くないと思ってくれればいいので」
春人の会話にはビジネスのノウハウや最新の科学知見が入っていて、退屈とは思わなかった。
それでいて春人は、私を女性らしく扱った。丁寧に、如才なく、下品さを欠片も感じさせずに好意を伝えてきた。
段々と、私は、このまま流されてもいいのではないかと思ってきた。
春人と交際して、結婚したら。春人は私の仕事の邪魔はしないだろうし、優は安心するだろう。何より気が紛れる。
そう。
私は、自分の気持ちをあの人から逸らせるものを、ずっと探していた。
「私はあなたと恋愛はできないかもしれません。それでも良ければ、付き合いますか?」
仕事の報告のような口調で言った私に、春人は心底嬉しそうな顔をした。
「議論のテーブルに着いてもらえるなら、『説得』の方法は色々あります。ここからは、僕の腕の見せ所ですね」
春人と交際して三ヶ月後、気付いたら婚約することになっていた。
春人の外堀の埋め方は鮮やかなものだった。交際を始めてすぐに親を含めた周囲に紹介され、結婚式場の日程まで押さえられていた。
週刊紙に記事を載せたのは春人本人なのではないかという気さえした。
多少強引なやり方でも、不快感がないのが春人という人間の不思議なところだった。
柔和な顔で「僕の本気が伝わるでしょう?」と言われれば、まぁいいかという気になった。
春人にはこうも言われた。
「絶対ダメでないなら撤回しませんよ。あなたは勢いがないと逃げそうですし」
その通りだと思った。春人は私の特徴を的確に捉えている。
婚約することになったと報告したとき、優は、想像よりもとても喜んでから、ふっと肩の荷が降りたような顔をした。
長年気苦労をかけていたのだと思い、優の表情が脳裏に焼き付いた。
婚約にあたって、結納と両家顔合わせをすることになった。私は春人の希望で着物、春人は仕立ての良いスーツを着ていた。
結納の後、全員で会場としたホテルの日本庭園に出て写真をとった。
「三ヶ月後には結婚式ですね。忙しくなります」
優と嶋本夫妻が帰った後、私と春人はその場に残り、話をしていた。錦鯉の泳ぐ池のほとりだった。
「あなたが先に式の日程を決めてしまったからでしょう。仕事も繁忙期なので適当にやらせてもらいます」
私はため息をつく。
「参列者は僕の仕事関係が多いので、大枠はこちらで決めます。案を見て、要望があったら指摘してください」
「嶋本製薬の御曹司は大変ですね」
この結婚は、嶋本製薬にとってかなりプラスに働く。式が仕事の延長になるのは仕方なかった。
春人は私の言葉に目を伏せた。
「そうですね、望もうと望むまいと、生まれは変わりません。あなたも同じでしょうが」
常とは異なる、感情のない声だった。
春人の初めて触れる一面に、私はたじろいだ。なぜ今、と思う一方で、今だからこそ、春人は私に本当の自分の一部を見せているのだと思った。
婚約は成された。もう、そう簡単な理由では覆せない。
「……実は、ずっとあなたに聞きたいことがありました。あなたを初めて目にしたときから」
春人は、私をまっすぐに見据えた。
その目は、私が彼に抱いていた印象そのもの——好奇心と打算を、理性で抑えている様を顕にしていた。
「あなたは、突然変異で得たX因子によって脳腫瘍の再発を免れました。先天的ならともかく、後天的に突然変異が起こるなんてあり得ますか?」
「……神様がくれた奇跡なんじゃないですか」
「その神様は、宮沢如月の父親と同じ顔をしていた?」
そういう噂が、流れているのは知っていた。私のX因子は、「彼」由来なのではないかと。
出所が脳移植手術の関係者なのかは分からなかったが、その噂は、あまりにも妥当だった。
私以外のマーメイド・ホルダーは、誰一人としてX因子を持っていないのだから。
「……創薬に携わる人間が、そんな都市伝説を信じているんですか? 不老不死の人間が本当に存在するとでも?」
言いながら、自分の言葉が心臓に刺さった気がした。長く考えないようにしていたあの人の存在を、否定したくない自分がいた。
もうこの話はしたくなかった。
私が話を打ち切ろうとしたとき、春人が言葉を投げた。
「では、記録媒体のネックレス。あれは、誰の記憶なんですか? テレパス・システムが普及してから、あなたの身内や友人で亡くなった人は誰もいないのに」
視界がぐらりと歪んだ。
春人の前で、私は一度もあのネックレスを着けていない。
彼は調べたのだ。私がかつて肌身離さず持っていたことを。
見る人が見れば、あれがテレパス・システムの記録媒体であることはすぐに分かる。
『テレパス・システムを見るあなたを見て、興味が湧いたんです。一目惚れという奴ですかね』
なぜ警戒しなかったのだろう。春人の関心は、最初からそこにあったのに。
私はもう何年も、目を閉じ、耳を塞ぎ、何も考えないように過ごしてきた。その結果が今だった。
言葉を失う私を見て、春人はすぅっといつも目に戻り、張り付けたように微笑んだ。
「今日のところは、その反応が見られただけで良しとしましょう。あなたは本当に、興味が尽きない」
春人が私の腰に手を回す。
「疲れたでしょう。自宅に送ります」
すぐ隣にいるのに、春人の声はひどく遠かった。
私は額に手をあて、言うべき言葉を探した。ここで何も言わないと肯定ととられる。
「春人、私は、」
言いかけた言葉は途切れた。目の前に現れた人影に気をとられたからだ。
私と同じくらいの年齢の、美しい容姿をした女性だった。
けれどその目は異常にらんらんとしていて、私を睨み付けていた。見たことがない人に、そんな顔をされる覚えはない。
春人が私から一歩離れて、女性の方を向く。
「春人さん。どうして? 私と結婚するって言ってたじゃない」
女性が絞り出すように言う。
「そんなことは言っていない。君が勝手にそう思っていただけだろう」
春人の声は、私と話すときとは全く異なり、ひやりと冷たかった。
春人の顔を見ると、明らかに「参ったな」という顔をしていた。私は舌打ちしたくなる。
「……身辺整理くらい、できる人だと思っていたんですけど」
春人だけに聞こえるくらいの小声で言うと、春人からは「したんですけどね。対応を間違えたようで」と普段より焦っている声が返ってきた。
女性は私と春人が会話しているのを見て、体を震わせた。そして私に向かって駆け出してくる。
「あんたが、あんたさえいなければ!」
女性の体の後ろに回した腕には、刃物が握られていた。
私は咄嗟に顔の前に腕を出す。春人が女性の腕を掴もうとするのが見えた。
刃物は私の顔から逸れたが、肘に熱を感じた。その直後、女性の全体重がかかってきて後ろに倒れる。
すぐ後ろは、池だ。
体が池に投げ出される。
池は深く、足がつかなかった。着物が足にまとわりついて上手く泳げない。
私は掴むものを求めて、水面で手を振り上げた。岸辺に、真っ青な顔で膝をつく春人と、逃げていく女性の背中が見えた。
「はる、と!」
水を吸った着物は鉛のようで、自力では上がれない。それどころか体の動きが制限されて泳げないので、このままでは溺れる。
助けを求めたが、春人は泣き出しそうな顔で私を見た。
「僕は、泳げないんです」
冗談だろう、と言いたかった。
春人は唇を噛んで立ち上がり、「人を呼んできます!」と言って走り去っていった。
春人が見えなくなってすぐ、私は顔まで水に沈み、意識が途切れた。
肺に空気を押し込まれる感覚がして、私は激しく咳き込んだ。
視界が白んでいて、何も分からない。私は地面に手をつき、うつ伏せになって咳を繰り返した。その私の着物を、誰かが強く引くと、急に呼吸が楽になった。
ひゅうひゅうと精一杯に息をしていると、左腕に痛みが走った。
左腕を見ようとしたら、冷たい布が顔の前に落ちてきた。私が着ていた着物の帯だった。
何度か深呼吸して、周囲が見えるようになってきた。顔を上げると、私は、ひとりで池のほとりに転がっていた。
誰も、いなかった。
「ルイさん!」
春人と、ホテルのスタッフらしき数人が私のもとに駆け寄ってくるのが見えた。
「自分で上がったんですか? 良かった!」
「止血まで…誰かが?」
自分の体を見下ろすと、ずぶ濡れの着物は帯が解かれている。
そして左腕の傷に、帯揚げがきつく巻き付けてあり、止血されていた。
「ふふ……」
私は笑ってしまった。
春人とホテルのスタッフがぎょっとした顔をする。それでも笑いを止めることができなかった。
溺れる人間を引き上げて、人工呼吸を施して、帯を解いて、帯揚げで止血する。
まるで漁夫のように泳ぎが得意で、救命措置ができて、瞬時に帯を解けるほど着物を熟知している——そんな人が、そういるはずはない。
無理があるよ、睦月。
「側に、いたんだ……」
私が気付かなかっただけで、睦月は多分、ずっと私の側にいた。
それは、彼が、私と同じ気持ちだということだ。
体の隅々まで、髪の一本一本までもが歓びに沸く。世界が鮮やかに塗り替えられていく。
ああ、本当に、何も怖くない。
睦月のいる世界は、こんなにも素晴らしい。
「春人、あなたとは結婚できません」
青ざめた春人に、私はにこやかに告げた。
「私が欲しいのは、一人だけ。気付く機会をくれてありがとう」
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