十一章 17番目の私・3

第60話 あなたのいない世界でも

 瞼が妙に重かった。時間をかけて瞼を上げると、視界がぼんやり霞んでいた。

 何度か瞬きすると、見知らぬ部屋が像を結ぶ。

 部屋は清潔だががらんとしていて、他に誰もいなかった。

 私はベッドの上で体を起こした。右手でそっと頭に触れようとすると、腕に何本もカテーテルが繋がれているのがわかったので、それ以上動かないことにした。

 脳移植手術は終わったのだろうか。それとも何か不測の事態があって断念されたのだろうか。それに、なぜ術前にいた部屋と違う場所なのか、睦月は無事なのか。疑問ばかりが浮かぶ。

 ナースコールを押そうと枕元を探っていると、ノックもなしに扉が外から空いた。

 看護士かと思ったら、介護型ロボットだった。

 ロボットは「遠瀬さん、おはようございます。今日もよろしくお願いしますねー」と人の声を出しながらベッドに近づいてきた。

 見ると、ロボットにはカメラとマイクがついている。誰かが遠隔操作しているらしい。


「あの……。手術は終わったんですか?」


 私がロボットに話しかけると、一瞬の間があってから、


「えっ、あ、動かないで下さい! ドクターをすぐ呼びますからっ」


 慌てた声を出した後、アラームを鳴らした。

 数分後、生身の人間が部屋に飛び込んできた。白衣を着た医師と、優だった。


「ルイ……!」


 優は、顔をぐしゃぐしゃにして、泣きながら私の手を取った。

「ああ、良かった! 良かった! よく頑張ったな」


 その顔に、見慣れない皺が刻まれていて、私は愕然とする。よく見ると、優の頭髪は白髪が混じっていた。

 号泣する優の後ろから、医師が話しかけてきた。


「遠瀬さん、気分はどうですか。どこか痛かったり、気持ち悪かったりはしないですか」

「いえ、別に……」

「体を診せてもらえますか」


 医師の診察が終わって、医療スタッフの前で用意された水分を摂りながら、私は、医師と優に疑問を投げかけた。


「手術はどうなったんですか?」


 医師と優は顔を見合わせた。医師が優を促すと、優が——記憶よりもずいぶん歳の取った優が、言う。


「脳移植手術は六年前に終わった。ルイは——六年間、眠り続けていたんだ」


 私は、二十一歳になっていた。


 鏡の中の自分は、顔立ちはあまり変わっていなかったが、体つきが全く違っていた。

 どこも薄かった体は、胸と腰周りに皮下脂肪がつき丸みを帯びていた。

 六年間も眠り続けていたのに、私の体に衰えは全くなかった。肌はつやつやしていたし、しなやかな筋肉もついていた。むしろ手術前よりも健康的に見えたし、体も軽かった。

 睦月の臓器の作用としか思えなかった。


「睦月は? 無事なのっ?」


 そう問う私に、優は言葉を探すように視線をさ迷わせてから、ゆっくりと言った。


「……移植後は、問題なかった。今は分からない。六年前に別れたきりだ」


 優から、手術後に睦月と別れるまでの話を聞いたとき、私がまず思ったのは、脳を摘出しても睦月が無事だった、ということへの安堵だった。

 生き埋めでも交通事故でも死なない睦月なら、病院が爆発しようが銃で撃たれようが、生きて逃げ延びているだろう。


「それで、『依り代』の方は問題なかったの?」


 優は、深く息を吐きながら首を振った。


「あったさ。ルイの分析がなかったら、とても対応できなかっただろう」


 優によると、私は十六歳になった頃から「依り代」の力を示し、こことは別の施設に隔離されていたのだという。

 眠ったままの私は、モニターで遠隔から医師に管理され、直接的な処置はほとんど医療ロボットで行っていたそうだ。半年前までは。


「半年前に大きな地震があった。施設が倒壊する恐れがあったから、ルイと外に避難したんだ。

何しろ大きな地震で、建物に潰されかねない状況だったから、避難しない選択肢はなかった。移動途中も避難場所も人がごった返していたが……何も起こらなかった」


 そこで優は、私が「依り代」としての力を失っているのではと考えた。

 そして今の施設に移り、徐々に人との接触を増やして様子を見ていたところなのだという。


「…『祝福か、呪いか』、ね」


 生き残ることができれば、突如として力を失う。まるで誰かからの恩赦のように。

 これは多分、呪いなのだろう。

 優の話を聞いて真っ先に思ったのは、私が目覚めたこと、「依り代」でなくなったことを睦月に伝えなければ、ということだった。


「睦月への連絡方法は、今はないんでしょう? どうやって伝えようかしら」


 私が呟くと、優は痛々しいものを見るような目をした。そんな顔をする必要は全くないのに、と私は思った。

 六年の間、睦月が優と私にコンタクトをとっていないということを、優は重々しく告げたが、私は楽観視していた。

 あの睦月が、私を手放すはずがない。私が目を覚ましたと知ったら、依り代でなくなり近付いても大丈夫だと知ったら、飛んでくるに決まっている。そう、思った。

 思って、いた。

 それが私の願望でしかなかったと気づくのは、数年後のことだった。


 退院後、私は睦月に無事を伝えるために、自分の名前を世に出すことにした。

 私は日常生活に戻るなり、早々にSMH財団に再就職し、マーメイド・ジーンの研究に没頭した。退院してから二年後、私はX因子の研究成果を発表した。

「如月型の唯一の生存例」に突然発現した、というストーリーで発表されたX因子とその機能は世間から注目された。

 その後、私のチームが人工的に作製したX因子ミミックは、一部のマーメイド・ホルダーの症状を抑制することに成功した。根本治療とまでは言わなくても、医療の大きな進歩だった。

 私はマーメイド・ジーンの最先端の研究者として、学会で講演したり、論文を発表したりするようになった。

 私の名前と所属は、オンラインで検索すればすぐに出るようになっていた。


 それでも、睦月が私の前に現れることはなかった。


 最初は、睦月が拘束されていて、彼の意思に反して私に会いに来られないのではないかと思った。

 けれど、かつて追われた経験もあり、あれほど用意周到な睦月が、自分を狙ってくる人間に易々と捕まることはないだろう。もし捕まっても、脱出までに何年もかかるとは思えない。

 もしかしたら、という問いを胸の内で繰り返しながら、それを打ち消すように治療薬の研究に打ち込んだ。研究している間は、余計なことを考えなくて済んだ。

 そうやって、薄々気付いている事実から目をそらした。


 そうして、退院から三年が経った頃。

 優が、休暇もとらずにほとんどの時間を研究に費やす私を見かねて、こう言った。


「もう、彼を待つのは止めた方がいい。二度と接触するなと言っていなくなったのだから」


 その頃には、優は意図的に、睦月の名前を呼ばなくなっていた。まるで、名前を呼ばなければ、存在感が薄れるとでも言うかのように。

 私は優の言葉を否定したかった。

 だから、睦月の記憶にすがった。彼が残した、記録媒体のネックレスをテレパス研究所に持ち込んで、記録を再生しようとしたのだ。

 テレパス研究所の職員は、私のネックレスを確認して、気の毒そうに言った。


「こちらは確かにテレパス・システムの記録媒体ですが、基盤に樹脂が接触しているので、再生できません。樹脂を剥離すると、基盤が破損します」


 私はテレパス研究所を出てから、近くの緑地公園のベンチで、手の中のネックレスを見つめた。

 爽やかに晴れ渡った、春の昼下がりだった。

 木々の作る木漏れ日の下で、記録媒体の基盤はきらきらと輝いていた。遠い夢のように。

 再生できないことを、このネックレスを作った睦月が知らなかったわけがない。

 これは、再生するな、という彼からのメッセージだ。

 私はネックレスを手の中に握りこんで、その拳を自分の額をつけた。

 ずっと考えないようにしていたことが、胸からぶわりと溢れてくる。

 ああ——彼は、自分の意志で、私に会いに来ないのだ。


『あなたが好き。あなたも同じなら、傍にいてほしい。あなたが傍にいてくれたら、どんなことも怖くない』

『ああ。約束する』


 あの夏の日に、睦月と交わした言葉は、今でもはっきりと覚えている。

 睦月は、決して約束を軽んじない人だ。

 その彼が傍からいなくなった。それは、彼が、私と同じ気持ちではなかったということだ。

 私が気持ちを伝えたとき、睦月は幸せだと言ってくれた。睦月の視線が、声が、距離が、私という存在を慈しむ気持ちを伝えてくれていた。

 だから私は、睦月も私を好きなのだと——私と同じか、それよりも強い愛情を持っているのだと、勘違いした。

 当時、私は十五歳。思い返せば、なんて幼かったのだろう。

 時間が経つ程に、当時の自分がいかに未熟で、不遜で、身勝手であったか、身に沁みて分かる。

 優にも、睦月にも、周囲で一緒に働いてくれる人達にも支えられながら、それを顧みることをしなかった。働くことで大人と対等になったと思い込んでいた。

 睦月はきっと、危なっかしい子供を見守るように、一時傍にいてくれただけなのだ。

 私は、菜穂子のように娘ではなく、世奈のように妻でもなかった。名前のない関係で、ただ、ほんの一ヵ月——彼からすれば瞬きするくらいの短い期間、同じ家で過ごしただけ。

 思えば睦月は、一度たりとも、私のことを好きだと言わなかった。

 抱きしめたり手に触れることは時折あっても、それ以上のことは一切しなかった。

 私は、かつての「私たち」以上になれなかったのだ。

 睦月が過去の「私たち」を愛していたから、当然のように、自分も無条件に愛されているのだと思い込んでいた。睦月の記憶を暴いて、自分こそが彼の理解者なのだという顔をして。

 なんて驕りだったのだろう。

 顔を上げると、涙に濡れた景色は、光に溢れていた。ユキヤナギとレンギョウがこぼれるように咲き、若葉が瑞々しく伸びている。


「……綺麗ね」


 睦月がいなくても、世界は美しかった。そこかしこに命は芽吹き、輝いていた。

 愛ではなかったとしても、あの人が私を、この未来に連れてきてくれた。

 睦月の願いは、私が生き延びて、幸せになること。なら私は、その努力をしなければならない。

 私は涙を拭って、立ち上がった。


 彼のいない世界でも、私は、生きていくのだ。


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