第59話 逃走

 医師は、手技はうまくいき、睦月の脳幹部は無事定着したと言う。血中のX因子量が格段に増えたことだけでなく、移植部がグルコースを取り込んでいることでもそれは蓋然性があった。

 ならばなぜ目を覚まさないのか。誰にも説明できなかった。

 理由が分からないので、いつ目を覚ますのかも、全く予測がつかない。今日目覚めるのか、あるいは一生このままなのかも分からなかった。

 手術の翌日、睦月は意識を取り戻してすぐにルイの病室にやってきた。

 さすがの睦月でも脳幹を取り換えた影響は大きいのか、完全に回復はしていないようで、車椅子を使ってだったが、それでも術後すぐにルイに会いに来た。

 そして、様々なチューブとコードに繋がれて硬く目を閉ざすルイの傍を、片時も離れようとしなかった。

 今日こそはルイが目覚めるかもしれない、と希望を抱いて朝を迎え、落胆とともに一日が終わる。

 感情がジェットコースターのように上下する日々を重ねて、一ヶ月後。

 ある日の朝、優が仕事の前にルイの病室に寄ると、睦月がいつになく厳しい表情でルイの横に座っていた。睦月の全身から発される鋭い空気に、優は何かあったのだとすぐ分かった。


「……ルイの病状について医師から何か?」


 優の言葉に、睦月ははっとしたように顔を上げてから、首を降った。


「いや、何も。相変わらず、いつ目を覚ましてもおかしくはないと」

「じゃあ…」


 その顔はなんだ、と続けようとしたところで、睦月が右手で制した。

 優が言葉を切ると、睦月は、左手に持っていた機械を操作し始めた。見たことがない、手のひらサイズの箱形の機械だった。

 睦月はその機械のスイッチを入れ、テーブルに置いてから、優に近くに来るよう手で示した。

 意図は分からなかったが、優は促されるままに、睦月の向かいに椅子を持ってきて座った。


「盗聴されている。これはキャンセラーだ」


 睦月が話し始めて、優はぎょっとした。


「盗聴? 私がですか?」

「優も、俺もだ。ウェアブル端末で盗聴されている」


 睦月が、優の腕時計型端末を指差した。優がすぐさま端末を外そうとすると、「今はだめだ」と睦月に止められた。


「GPSで追跡されているし、心拍も測られている。外せばこちらが気づいたことがばれる。相手を誘導したいから、今はそのままでいてほしい」


 腕時計型の端末で心拍を測定して健康管理する機能が、着脱の有無を他人に明確に伝えるのだと、優は初めて思い当たった。


「相手、とは。誰が、何のために?」


 睦月の口ぶりからすると、見当がついているのだろう。優が訊くと、睦月は苦しそうに息をついた。


「俺の存在が漏れた。俺を確保しようとしている。相手は……どこぞの軍事国家か、大富豪か、全容が分からない。直接確保に来る連中は、雇われた傭兵くずれらしいが」


 国家、という単語に優は目眩がした。「外国映画のような話ですね」とかろうじて言うと、現実味がますます薄れた。


「ルイを確保するつもりがなさそうなのが、不幸中の幸いだな。傭兵が受けているオーダーはひとつだ。『不死の男を拘束しろ』」


 恐れていたことが、とうとう起こった。それも優が考えていたよりもずっと早かった。


「身を隠しますか?」


 誰かに追われるようになったら睦月は身を隠す。そういう話だったはずだが、睦月は否定した。


「いや。優が盗聴されているということは、少なからずルイのことも漏れている。俺が消えれば済む話ではなくなった」


 睦月は優の腕を掴んだ。強い力だった。


「優。ルイを隠して、逃げてくれないか」


 睦月の言葉には、懇願に近い響きがあった。


「もしルイを盾にされたら、俺はどうしようもできない。すぐ病院から出て、念のため数年……三年は隠れてほしい。そして二度と俺に接触するな」


 睦月は少し冷静になったのか、手の力をゆるめてから続ける。


「医療設備のある隠れ場所は複数用意してある。あんたはしばらく表舞台に戻れないが、ほとぼりが冷めれば普通の生活に戻れるはずだ。

俺と接触しなければ、誰もがルイと俺には何の関係もないと思うだろう。実際、ルイと俺には辿れるような繋がりがない」


 二度と。

 その言葉の重さに、優は一瞬息を止めた。

 それは、優とルイの生涯に渡って、彼との関わりを絶つということだ。


「……あなたはここに残って、どうするんですか」

「……ふ、」


 睦月は優の腕を離し、獰猛な笑みを浮かべた。

 ルイと一緒にいる睦月からは想像もできない、空恐ろしい表情だった。


「俺を捕らえたがっているのは複数いる。そいつらを諦めさせるためには、利益より損失が大きいと思わせればいい。 

……集まってきた奴らから親玉を手繰り寄せて、これ以上ないくらい後悔させてやる」


 言ってから、睦月は、すぅっと笑みを消した。横たわるルイを一瞥する。

 そしてぽつりと言った。


「結構な無茶をする。彼女を巻き込むわけにはいかない」


 ——自分の身の安全を守るためなら、彼がそこまでする必要はないはずだ。

 彼だけなら、これまでと同じように完全に身を隠すだけいいはずだった。彼を狙う者と対峙するのは、ルイを守るためだ。そして、ルイの一生を日陰生活にさせないためだ。

 彼がそこまですると言うのに、ルイの養い親である優が動かない道理はない。財団の所長職を辞しても、マーメイド・ジーンの遺伝病を根絶するという望みが一時遠くなっても。

 それは、ルイを養子にと望み、彼女の人生を変えた優の責任だった。


「分かりました。ルイを連れて逃げます」


 優ははっきり言い切った。

 世間から身を隠すにはそれなりの準備が必要かと思ったが、睦月はこうなることを想定していたのだろう。偽装の身分証や銀行口座、現金、カード、住居まであらゆるものが既に用意されていて、優は身一つでルイと逃げることになった。

 よく考えれば、優はならず者たちに監視されているはずで、大量の現金を引き出すことも、身の回りの荷物をまとめる素振りを見せることも、悪手でしかない。

 その後、優は睦月の指示を受け、ルイをストレッチャーに乗せて救急外来の入り口近くに移動した。

 救急外来は、平時とは異なり奇妙に静かだった。いつもは緊急搬送されてくる患者と医療スタッフでごった返している場所は、今は静まり返っている。睦月のことだ、既にほとんどの一般人は病院から出したのだろう。


「優、腕を出せ」


 睦月はキャンセラーを手にしたまま言った。優が言われるままにすると、睦月は自分の腕時計型端末を、優のそれに近づけた。


「心拍や体動のダミーデータを送り込んでいる。これで十五分は大丈夫だから、外せ」


 優がおそるおそる端末を外すと、睦月はそれを受け取り、通路の端から幽霊のように現れた白衣の男に渡した。

 白衣の男は訳を知ったように頷いて端末を装着してから、緊急外来の入り口に向かった。外来の入り口には複数の救急車が停まっていて、男はそのうちのひとつに乗り込む。

 優がそれを見ていると、睦月が「あの救急車に、ルイと優が乗っていると思わせる」と小声で説明し出した。

 六台の救急車をほぼ同時に発進させ、それぞれ別の方向に向かわせるのだという。六台のうち一台は優の身代わり、一台は優とルイ、残りの四台は本物の患者が乗るらしい。


「あの人は、大丈夫なんですか?」


 優の端末を持っていった男のことを訊いたら、睦月は軽い笑みを浮かべた。


「素人じゃない。やって来た人間を返り討ちにするくらいの武装はしている」

「……あなたも?」


 優は、睦月と最初に会ったときのことを思い出した。目の前の睦月は、ショットガンの銃口を向けてきた彼とはもはや別人に思えた。

 睦月は肩をすくめて見せた。答えるつもりはないらしい。

 よく見ると、睦月の腰まわりは、不自然に膨らんでいた。服の下に何か装着しているのだろう。

 睦月はルイのストレッチャーに近づき、台の上にキャンセラーを置いた。そして自分の首の後ろに両手を回す。

 何か首に下げているものを外しているのだと分かった。睦月は外したそれを、ルイの首に通す。

 睦月の記憶が保存されているという、記録媒体だった。


「……」

 優は、ルイの頬に触れる睦月を、静かに見守る。

 ルイが身につけたいと望んだ、睦月の記憶。それだけを残して、彼は——ルイに今生の別れを告げようとしている。


「……ルイ」


 睦月はルイに覆い被さるように屈み、ルイの額に自分の額を合わせる。


「隣に居られなくて、すまない」


 しんと静かな院内に、睦月の声が吸い込まれていく。


「どこにいても、何をしていても、君の幸せを願っている。だから、どうか——目を覚ましてくれ。君のいない世界は、もう嫌なんだ」


 彼の声は、涙に濡れたように震えていた。

 睦月はルイの耳に口を寄せて、短い言葉を囁いた。

 内容は聞きとれなかったが、何を言ったのか、優には抑揚で察しがついた。

 愛する人との別れに、囁く言葉はひとつしかない。


「……待たせた」


 体を起こした睦月は、意図的に表情を消しているように見えた。

 優は軽く首を振った。

 ルイとともに救急車に乗り込む直前、優は、睦月に早口で言った。


「ひとまずは隠れるし、あなたと接触しません。でも、これが最後なんて、思っていませんから」


 それは優の願望でもあった。

 睦月は驚いたように目を見開いてから、晴れやかに微笑んだ。


「あの日、優が俺を訪ねてきたこと、今は心底良かったと思うよ」


 睦月が言い終わると同時に、救急車の扉が閉まり、車が急発進した。スモークガラス越しに外を覗くと、他の救急車もそれぞれの方向に散っていく。

 車が病院から出て少ししたときに、ずん……と地鳴りのような轟音がした。音のした方を見ると、病院の一部が、激しい煙を立てながら崩落していた。

 ——結構な無茶をする。

 睦月の言葉を思い出した。


「……睦月」


 睦月のいる病院は、あっという間に遠ざかって、やがて見えなくなった。

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