第58話 脳移植手術へ
それからの一週間。睦月とルイは、寄り添うように静かに過ごした。
命にかける手術を待つルイも、手術が成功したとしても遠くない未来にルイから離れるつもりの睦月も、一緒に過ごす時間を惜しんでいるのだと分かった。
ふたりは何でもない、とりとめのない話をよくしていた。
ある日、優が研究所の用事を済ませた午後の早い時間に病室に行くと、ルイの姿がなかった。
ベッドの横にメモ書きで「中庭にいます」とあったので向かうと、中庭のベンチに、睦月とルイが並んで座っていた。
秋の始まりの、爽やかな日だった。
空はからりと晴れて、やや傾いた日差しが、黄色くなり始めた木々を照らしていた。暑くも寒くもない、一年のうちに数日もない、心地よい気候だった。
ベンチの後ろから優が近づくと、ふたりの声が風に乗って届いてきた。
「睦月は国外に行ったことはないの?」
「ないな。渡航が気軽にできるようになったのはそんなに前じゃないし、君達と会うのはいつもこの国だったから」
ルイはふうん、と言ってから、
「世界を一周するクルーズ旅行があるのは知ってる? 私、いつか行ってみたいんだ」
何も気負うことない口調で続けた。睦月はルイに気付かれないくらいの一瞬、言葉に詰まってから応えた。
「存在は知っている。いいんじゃないか、仕事を辞めたら時間はたっぷりある」
ルイはからりと笑った。
「そうね、学生でも会社員でもないティーンエイジャーなら時間は余るほどあるね。財団からのお給料も貯まっているし、豪華客船も乗れるかも」
ルイは弾んだ口調で言った後、空を仰いだ。
雲が空高く浮かぶ、澄んだ青だ。
「……睦月も一緒に行く?」
ルイの声は呟きのようで、返答を期待しているような声色ではなかった。しかし睦月は、間髪入れず応えた。
「それは、とてもいいな」
じわりと沁み入るような声だった。
「とても、いい」
繰り返す睦月の声は、憧憬が混じっていた。
心からそれを願っていることが分かる口調だった。
そして、――おそらく彼は、それをできないと思っている。
優は踵を返して、ふたりから離れた。気付けば拳を握りしめていた。
優としては、ルイがもう少し成長したら、ふたりの仲をどうこう言うつもりは全くなかった。睦月に釘を差したのは、ただ単にルイが未成年だからだ。
けれど睦月は、ルイと人生を共にしないことが正しいと言う。
睦月という人間を知る前なら、優はそれを当たり前だと思ったかもしれない。何しろ、彼は不老不死だし、違法行為の塊だ。義娘の人生に深く関わらないのは歓迎すべきだと――今はもう、思えない。
睦月とルイの間の空気は、親密な関係の人間同士にしかないものだった。優にも覚えがあった。優がかつて、妻と過ごしたときに感じた空気だ。
人の人生は有限だ。だから、その限りある時間を、大切な人と過ごす。ありきたりな日々の積み重ねこそが、何にも替えがたい。
会って言葉を交わせること、そのぬくもりや存在を感じられること――それは、たくさんの奇跡の上に成り立っている。一度家族を失った優は、それを痛感している。
「……正しいか、なんて」
正しいかどうかに、何の意味があるのか――。
優はその後、院内を特に目的もなく周り、少し気分を落ち着けてからコーヒーショップで飲み物を三つ購入して、ルイの病室に戻った。
ノックして入ると、部屋にはルイだけがいた。
「あれ、彼は?」
「電話みたい。すぐ戻るって」
「そうか。……冷たいのとあったかいの、どっちがいい?」
飲み物の容器をテーブルに並べると、チョコレートとコーヒーの混じったような香りがした。ルイが華やいだ声を出した。
「もしかして、ショコラモンブラン味? 新製品だよね」
「前、飲みたいって言ってた気がしてな」
ルイはホットの容器の方を手に取った。残ったのは、アイスのショコラモンブラン味と、ホットコーヒーだ。
優は少し迷って、ホットコーヒーを飲み始めた。
「おいしい。ありがとう、優」
ルイが流れるようにお礼を言う。人に何かしてもらったら感謝するよう、教育してきたのは優自身だ。
けれどふと思った。
ルイがもし自分の実娘だったら、社会に出ずにまだ親元にいたら。親から与えられるものは、感謝も疑問もなく、当たり前のように受け取っただろう。
「……ルイ」
優はルイの頭を撫でた。そうするのは随分久しぶりな気がした。
社会に出てからのルイは、そういった子供扱いを許さない、厳しい気配をまとっていた。
しかし今は、ルイは財団の管理職ではなく、ただの優の義娘だった。仕事場にいたときの硬い雰囲気は微塵もない。
職場を離れたからなのか、もしくは彼のお陰なのか。
「私には良く出来すぎた娘だな」
ルイは不思議そうな顔をしたが、優が無言で頭を撫で続けると、気持ち良さそうに目を細めた。
少しして、睦月が病室に戻ってきた。
「あなたのもありますよ」
優がしれっとした顔でショコラモンブランの容器を渡すと、睦月は喉が渇いていたのか、けっこうな勢いでドリンクをあおってから、う、と眉根を寄せる。
「あ、甘い……」
「おいしいよね。優が買ってきてくれたの」
「……そうだな」
優は笑ってしまった。ルイは超甘党だ。そのルイの好みに合うということは、相当な甘さに違いなかった。
それでもルイに話を合わせるあたりが、彼らしいのかもしれない。
「ルイにアイスとホットを選ばせてあげたかったので。はい、どうぞ」
優は未開封の水が入ったボトルを睦月に差し出した。睦月は、「あんた、分かっててやったな…」と苦笑しながらボトルを受け取り、口をゆすぐように水を飲み始めた。
そして迎えた手術日の朝。優が病室に着くと、既に睦月も来ていた。
「手術室の準備はさっき見てきた。問題なさそうだな」
睦月の言葉に、優は頷いた。
「予定通りです。もうすぐ医師が来ます」
ルイも頷いた。その表情は硬い。
無理もない、今回の手術はこれまでルイが受けてきたものとは訳が違う。誰にとっても未知な大手術だ。
気休めも慰めも言えなかったが、これだけは言えた。
「ルイ。私や彼を含め、手術に携わる全員で最善を尽くす」
優はルイの両肩に手を添えた。
「全員が、手術が無事終わって、ルイが目を覚ますことを願っている。決してルイはひとりじゃない。だから、一緒に頑張ろう」
ルイは両目を見開いて、優を見上げた。
優の横で、睦月もルイに頷いて見せた。ルイの目に涙が滲む。
ルイは両手で顔を覆い、大きく数回深呼吸してから、自分の両頬をはたいた。
そして立ち上がる。
「うん。行こう」
その目に、もう迷いはなかった。
その後、手術の手技は問題なく完了した。
――けれどルイは、いつまで経っても目を覚まさなかった。
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