第6話 事件
睦月の家から出た後、私はほとんどしゃべらなかった。
迎えに来てくれた篠田は、押し黙った私と睦月を見て何か訊きたそうだったが、結局なにも言わずに車を出してくれた。私を自宅まで送り届けてくれるという。
夜十時前になっていた。
親には塾の特別講習だったのを忘れていた、帰宅は九時を過ぎるとメールで連絡していた。
特に返信はなかったが、最近の両親の態度を見るに、私への関心や心配は薄れているので問題ないと思った。
最近の自宅は、家族からの腫物を扱うような空気があって決して居心地のいいものではなかった。けれど、私があと数年で死ぬという恐ろしいことを知っている睦月のそばを、とりあえず離れられることに安堵していた。
睦月が悪いのではないと、頭では分かっていた。
それでも、この先何十年と生きることを信じて疑わなかった私に、進学や就職、結婚や出産、老いる未来がないという事実は、到底受け入れられるものではなかった。
高校を卒業して、大学へ進学したその途中。
もしくは、就職してほんの二年で死ぬ。ひとつやふたつの恋愛をしても実を結ぶことなく、何かを残すこともできずに、この世から消える。
その人生に、何の意味があるのだろう?
「世奈さん。着きましたが……」
篠田の声で暗い思考が途切れた。
家から数十メートル離れたところに車が止まっていた。家族から車が見えないよう配慮してくれたらしい。
とにかく今は日常に戻りたかった。
私は逃げるように車から降りた。あたたかい明りのつく玄関は、日常そのものだった。
玄関にほとんど駆けるように近づき、インターホンを鳴らそうと伸ばしたところで指が止まった。玄関がわずかに開いている。
心臓がはねた。
背後を伺うと、まだ篠田と睦月を乗せた車がある。私が家に入るまで見届けるつもりらしい。
こんな夜中に玄関を開け放つわけがない。
ふたりを呼んだ方がいいかもしれないと思い、後ずさりした。
それでも、母が扉の内側で腕組みして待っていて、私の帰宅が遅いことを怒っているだけかもしれないという淡い期待もあった。両親がわざと開けているとしたら、知らない男性を二人も呼んだら大騒ぎになってしまう。
扉の隙間からそっと中をのぞいた。中は暗かった。
玄関の靴を置くスペースに、布のような大きなものが落ちていた。
なぜこんなものが、と思い目を凝らすと、それから白い腕が生えていることに気づいた。長い髪も。
小さく悲鳴を上げてその場に座り込んだ。
母だ。母が倒れている。
立ち上がらなければと思うのに、脚ががくがくと震えて力が入らない。
救急車、警察?混乱した頭で何かを必死に考えようとしていると、玄関の中から、のしのしと重い足音が近づいてきた。
母以外の誰かがいる。
玄関が激しく内側から開いて、誰かに腕を掴んで引きずり込まれた。
家の床に叩きつけられる。全身の痛みに耐えながら顔を上げると、知らない男が立っていた。男は恐ろしい形相をして、右手に持っているものを握り直した。包丁だ。
ーー殺される!
包丁が振り下ろされる。とっさに体を丸めたが、腹部に激痛が走った。
逃げ道を探したが、玄関の出口には男が立ちはだかっている。反対側の家の中に這うようにして移動した。扉の開いたリビングに入ったとき、玄関から揉み合う音が聞こえた。
「篠田、そっち押さえろ!」
睦月の声だ。
腹部を庇うように手で押さえながら、顔を上げると、篠田と睦月が床に倒れた男を抑え込んでいるのが見えた。
男が続けて襲い掛かっていることがないことに息をついて、リビングの中を見たとき、その呼吸が止まった。
ソファーの横に、父が倒れている。
「お父さ……!」
父の着ているシャツは、胸元が血で染まっていた。父の傍に寄ろうとしたが、痛みで動けない。篠田がどこかに電話している声が聞こえる。
そのまま意識がなくなった。
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