第5話 運命を知る

 天野とふたりで建物の前に残され、色々聞きたいはずなのに、なんだか胸元がつまる感じがして居心地が悪かった。


「とにかく、入ろう。血を洗った方がいい」


 天野が私の肩に軽く触れた。

 私は頷いて、天野の後から玄関から入る。丸太がそこらじゅうに使われているせいか、室内は木のにおいがした。

 天野がどこからか出してきた服を持たされ、シャワーを浴びる。

 天野の血は制服にべったりと付着していて、すでに乾いて固まっていた。指で触ると、固まった血がぼろっとはがれて落ちて改めて、天野に大変なことをさせてしまった、と思う。

 体を洗った後、渡された服を広げると、それは水色のワンピースだった。

 生地に花や蝶の細かい刺繍が施されている。明らかに女性ものの服で、それもデザインからするとずいぶん年代物のようだ。

 なぜこんなものを天野が持っているのか想像しようとしたが、何かを想像できるほど天野という人のことを知らない。

 袖を通すと、生地が肌の上をするりと滑って心地よかった。

 バスルームから出ると、キッチンで天野が何かをしていた。

 暖炉を備え付けたリビングはカウンターキッチンとつながっている。近寄ると、彼はやかんを火にかけているようだった。

 明るいところでまじまじと見ると、天野の髪や首元には、まだ血がついている。そういえば彼はシャツを着替えただけなのだった。

 先にシャワーをもらってしまい申し訳なかったと思った。


「シャワー、先にありがとう」

「ああ。今、何か淹れようと」


 天野が私の方に目を向けながら言って、変なところで言葉を切って動きを止めた。

 私が首をかしげると、天野は物思いにふけるような顔をしていた。


「いや、ちょっとびっくりして。……後で話すよ」


 天野の口調は穏やかで、ひるみそうになるほど屈託なかった。

 これまで、出会ってからずっと天野を覆っていた硬い膜が、突然はがれたようだった。

 私がどんな顔をしていたのか、天野が安心させるように付け足す。


「知られたくないことは、もう知られたからな。隠しておく必要がなくなった」


 火にかけていたヤカンがぴいっと鳴って、天野が火を止めた。天野は手際よくお茶を淹れて私に渡してから、バスルームに向かった。

 天野が淹れてくれたのはハーブティーだった。それを飲みながら、ソファーに腰掛ける。カモミールがふっと香り、肩から少し力が抜けた。

 天野はシャワーから戻ると、私に空腹か訊いた。首を振ったが、時間はすでに八時をまわっていた。

 今日帰るにしろ、まずは食事にしようと言って天野が再びキッチンに立った。


「日持ちするものならあるはずなんだ。普段、定期的に管理を頼んでるから」


 キッチンの戸棚や冷蔵庫を開けて、パスタやトマト缶を見つけた天野が慣れた手つきで料理を始める。

 天野だけに作らせるわけにもいかないので、私も隣に並んで手伝う。

 玉ねぎを切りながら、ほんの数回しか会っていない天野と並んで料理を作っている状況はなんだか奇妙に思えた。

 それを口にすると、天野はあっけらかんと笑う。


「あー、世奈はそうかもな。俺は、初めてじゃないからなあ」


 天野はフライパンでベーコンを炒めながら気軽に言う。


「もちろん世奈とは初めてだけど、前の君とはよく料理したな。毎日君の食事を作ってたから」


 訊いてもいい、という雰囲気を感じ取って、私は少しずつ尋ねることにした。


「……前、って」

「宮沢世奈と呼ばれる前の、君。違う名前で違う人間として生きてた。……あ、玉ねぎできた?」


 不意に聞かれて、慌てて手の動きを再開する。

 切り終わった玉ねぎをフライパンに投入した。具材に火が通ったところでトマト缶とコンソメを入れて煮詰める。


「君は何度も生まれ変わっていて、俺が知っている限りでは十六人目になる。十五人目の君は、俺の娘として一緒に暮らしていた」


 天野は本当に何でも教えてくれるつもりになったらしい。

 何度も死んでいるというのは、今の私ではなく、これまでの私、という意味らしい。

 それにしても。


「娘? あなたの?」

「もちろん、血は繋がってないけどな。色々あって引き取った」


 江の島で暴漢に襲われたとき、天野がシャツのボタンをとめてくれたことを思い出す。この人にとって、私は小さい子供のような感覚なのだろうか。


「他の私とは、どういう関係だったの?」


 先に聞くべきことがあるような気もしたが、思いつくままに口にする。天野はさらりと応えた。


「色々だな。君は俺の友人であり、妹であり、娘でもあった」


 天野が出来上がったソースにゆでたパスタを入れて混ぜはじめた。


「いつでもゆっくり話すから、まあ、とりあえず冷めないうちに食事にしようか」


 ダイニングテーブルで向かい合って、パスタを食べる。厚切りのベーコンとトマトを口に入れたときに、自分が空腹だったことを思い出した。

 天野が「私」と食事するのに慣れているというのは、本当らしい。

 天野はリラックスして、まるでこれが繰り返している日常のような自然さで、私の前で食事している。

 天野はずっとこの姿のままだったはずで、きっと違う姿の「私」と同じように向かい合っていたのだろう。


「そういえば、あなたの下の名前は?」


 食べ終わってお茶を飲みながら訊くと、天野は一瞬遠い目をした。


「本当の名前は忘れた。一時期からは睦月と名乗っている」

「天野、むつき?」

「天野は買った戸籍の名前で偽名なんだ。呼ぶなら下の名前にしてくれ」

「ええと、じゃあ、……睦月」


 睦月、と口にしたら、胸の中に、焚きしめた香がぶわりと充満するような、奇妙な感覚がした。

 ぼうっとしていると、天野――睦月は、細く息を吐いた。笑っているのだと思った。


「苗字だとさんづけで、名前だと呼び捨てっていうのは……世奈の感覚は、よく分からないなあ」


 言われてみればそうだが、なぜか、「睦月」という名前を他人行儀に呼ぶのに違和感があったのだ。


「名前を忘れるくらい、ずっと前から生きているの? 不老不死、だから?」


 思わずでた言葉に睦月が気分を悪くしないか心配だったが、本人はあっけらかんとしていた。


「そう。もともと死ななくなったのは、人魚の肉とかいうあやしげなものを口にしてからで……。

俺のことを知っている人間は先に死んでいくし、ずいぶん長い間、ひとりで生きていて誰も俺の名前を呼ばなかったからなあ」


 名前を呼ばれない人生なんて、考えられなかった。

 自分の一番のアイデンティティであるはずの名前を忘れるほどの長い時間の孤独とは、一体どんなものなのだろう。そして、周囲の人が先に死んで残されるのは。

 私はそこで唐突に気づいた。

 この人は、私を見送り続けて、ここにいるのだ。周囲の不幸を吸い取って命を落としてきた、過去の何人もの私を。

 睦月は私の表情から、何に思い当たったのか分かったようだった。


「……そうだ。君も先に逝ったよ」


 睦月の瞳に、哀しみと、諦めと、それでも捨てきれないような光がある。


「私を、探していたの?」


 それはほとんど確信だった。


「約束したからな」


 睦月の言葉はさらりとしている。

 死んでしまった、過去の私。去年から降りかかる不運。

 私の前に直接現れるようになった彼と、頑なだった態度の急激な変化。

 彼が現れるようになったのは、私の不幸が苛烈を増してきて、彼自身が手を出さなければならない状況になったからだ。

 そして、二度と会わないとすら言って、なにも語らない姿勢だった睦月が、不老不死であることを知られたとたん、何でも話すようになった。これまでの私のことも、睦月のことも。

 彼はきっと、彼自身が死なないことではなくて、私を見送り続けたことを隠したかったのだ。

 胸の奥に、ぼとりと、冷たい塊が落ちた。それと同時に、色んなことが納得できた。

 私は、もうそんなに長く生きられないのだ。


「私は、何歳まで生きられるの?」


 睦月は一瞬、口をつぐんだ。

 その後、ふう、と細く長い息を吐いて、口の中で、何かを早口につぶやいたのが分かったが、内容は聞き取れなかった。続けた言葉ははっきりと耳に届いた。


「……二十歳よりも長かったことは、これまでない」


 私は今年で十七になる。

 私に残された時間は、あと三年もないのだ。

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