第4話 不老不死

 頭の中に、重苦しい霞がかかったようだった。なんとなく吐き気すらもする。形が不明瞭な濁った霞の中に、ひとつだけ、はっきりしていることが浮かんだ。

 私は、いつか不幸を集めて死んでしまう。そして、過去に何度も死んでいる。


 轟音がすぐ隣でしたとき、私は初めて、自分が車道に出ていることに気づいた。

 トラックがすぐ目の前まで来ていた。足がすくんで動かなくなる。

 体が横から押されて宙に浮いて、体が歩道に投げ出された。一瞬遅れて、私がさっきいた場所で、ぐしゃっ、という気味の悪い音がした。

 体中を打ちつけて息が止まったが、なんとか体を起こすと、車道に天野が倒れているのが見えた。

 トラックの前面とアスファルトに冗談のような量の血が飛び散っている。


「……う、そ」


 天野の手足は変な方向に曲がっていて、ぴくりとも動かなかった。

 トラックの運転手があたふたして出てきたところで、見たことのある黒塗りの車が二台やってきた。

 スーツ姿の人が何人か降りてきて、運転手と話したり、機械的な動作で周囲に青いビニールをかぶせて目隠しをしたりし始める。

 私はふらつきながら天野に近づいた。

 天野の腹部はべっとりと血で汚れていて、シャツの下に赤黒い塊が見えていた。

 何かしないと。応急処置を、と思いながらもこんなにひどい状態では何をすればいいのか分からなかった。

 天野の横に膝をついて、確かめるように首筋に触れると、脈がなかった。

 ストンと、胃に冷たいものが落ちた。


「世奈さん」


 頭の上から声が降ってきた。見上げると、篠田が何でもないような顔をして立っていた。


「篠田さんっ」

「ええ、分かっています。大丈夫です」


 篠田がかがみこんで、無造作に天野を担ぎ上げた。

 怪我の様子など構わない仕草にぎょっとしたが、とにかく後についていく。

 篠田は車の後部座席に天野を押し込み、助手席を指して世奈に乗るように言ってからすぐに車を発進させた。一刻も早くこの場所から離れたいようだった。

 事故があったのだから警察と救急車を呼んで、天野は病院に搬送しなければならないと思うのだが、そんなそぶりは一切なかった。


「天野さんがっ、私をかばって。脈が、ないんです。早く病院に……」


 凍り付いたような喉から、切れぎれにようやく言葉を絞り出したとき、後部座席からため息が聞こえた。


「あー。痛ってえ……」


 まるで足の小指をぶつけたときのような、ずいぶんぼんやりした口調だった。

 乗り出すように後ろを見ると、血まみれの天野がむくりと起き上がって、首をひねっていた。

 本人は顔をしかめているだけで、息も絶えだえという様子ではない。天野は後部座席の窓に備え付けているカーテンを面倒くさそうに閉めはじめた。


「天野さん、気を付けてくださいよ。もみ消すのは大変なんですよ」


 篠田も篠田で、天野の体を気にしていない様子だった。


「悪かったよ。着替えある?」

「その前に、右腕と左脚をなんとかして下さい」


 篠田に指摘されて見ると、天野の腕も脚も関節でないところで曲がっているし、特に右肘のあたりは血まみれで、白いものがのぞいている。

 骨だ。

 悲鳴を上げかけると、篠田が「落ち着いてください」と言う。


「世奈さん、大丈夫ですから。前を見ていて下さい」


 さっきから篠田は大丈夫だというが、何がどう大丈夫なのだろう。

 天野から目を離せないでいると、天野はばつが悪そうな顔をしていた。篠田が運転しながら左腕を私に伸ばし、肩をつついた。


「世奈さん。……見ないであげて下さい」


 よく分からなかったが、篠田の声が切実だったので助手席に座り直す。すぐ後ろで、ごきん、と恐ろしい音がした。篠田は平然と運転をしている。

 もう一度、ぼきっと音がしてから、後ろが静かになった。


「あの、あま、の、さん?」


 フロントガラス越しに信号機を見ながら、意識はすべて背面に向かっていた。恐る恐る呼びかけると、「ん?」という日常的な声が返ってくる。


「怪我、大丈夫なんですか? 痛いですよね?」


 我ながら他に言うべきことはあるだろうが、それしか思いつかなかった。


「すげえ痛い。でも、そのうち治るから」

「そのうちって……」


 藤田がハンドルを切った。高速道路に入るところだった。遠くに移動するらしい。


「天野さん、彼女に話したんですか?」


 藤田が気遣うような声色で天野に言う。天野は返事しない代わりに、「着替えあるか?」と繰り返した。

 藤田が運転しながら、助手席の足元にあった紙袋を後部座席に渡す。

 後ろで布がこすれる音がして、私はどこを見たらいいか分からず、平たんな高速道路の道に目を向けていた。

 少しして、「世奈、もういいよ」という天野の声がした。

 振り返ると、新しいワイシャツに着替えた天野が、血で汚れたシャツを丸めて持っていた。

 新しいワイシャツに血は滲んでおらず、すでに出血が止まっているように見えた。髪と綿パンには血がついているものの、さっきよりは「半死体」感が薄れていた。

 睦月は私に「怪我は?」と言った。

 人の心配をしている場合ではないと思うのだが。「どこも」と早口に応えると、天野は満足そうに頷いた。


「病院には……」


 本当に医者に診てもらわなくて大丈夫なのかと思ったが、天野は困ったように笑った。


「今の、見ただろう。死なないんだよ。病院なんて行ったら、大騒ぎになって、解剖でもされるのがオチだ」

「しなない……?」


 呆然とつぶやいた言葉は微妙に舌足らずになって、今のこの状況に全く合っていなかった。助けを求めるように篠田に顔を向けたが、篠田は肩をすくめて見せるだけだった。


「言うつもりはなかったんだけどなあ……」


 天野は言葉を選んでいるように、ゆったりと話す。


「見ての通り、俺は死なないし年をとらないんだ。ずいぶん昔からこの姿で生きている。

姿形が変わらないから、人の記憶に残るようなことは避けているんだ。事故現場にいられなかったのはそれが理由だ。……君を巻き込んでしまって悪かった」

「それは私が、車道にいたからっ」


 巻き込まれたのは天野の方だ。本当なら、トラックに轢かれていたのは私だったはずだ。

 撥ねられた後の、天野の凄惨な姿が頭の中によみがえる。

 天野は痛いと言っていた。死なないとしても、痛覚はきっと普通にあるのだ。胸がぎゅうっと苦しくなる。


「間に合ってよかった。……悪化してきたな」


 天野がつぶやくように言った。何が悪化してきたのかは言われなくても分かる。

 車の外を見ると、神奈川県に入るところだった。どこに行くのだろう?


「世奈さんには申し訳ないのですが」


 篠田が私の視線に気づいて話す。


「トラックとの衝突を何人かに見られています。それに、あなたのその姿では外に行くと目立ってしまう。こちらが持っている物件に移動します」


 私の姿が何だというのか。

 自分の体を見下ろすと、腹部から膝に、赤黒いものがべっとりとへばりついているのが目に入った。

 一瞬、体がびくりと硬直したが、すぐに自分のものではないと思い当る。天野に駆け寄ったときについたのだろう。

 篠田はこういうことに慣れているのか、終始平静を保っている。

 車は高速を降りると、住宅街を通って徐々に山道に入っていった。

 日が翳ってきた頃、周囲に家や人気のない場所に、ぽつんとログハウスがたっていた。促されて車を降りると、篠田は車で、もとの道を戻っていった。

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