第3話 あなたに会いに
家に帰ると、篠田と天野がどう説明したのか、付近の河川が増水したために江の島合宿が切り上げられたことになっていた。
私は荷物を持っていないことを両親に不審がられたものの、大きな問題なく日常に戻った。
月曜日に学校に行くと、紗子からは「親戚の容態はどうだ」と訊かれた。
あいまいに相槌を打ちながら話を聞きだすと、どうやら部活動の方では、身内が危篤なため合宿場に家族が迎えに来て、急に帰宅したことになっているらしい。
篠田から連絡が来たのは、一週間後だった。天野は都内のホテルのラウンジで人と会い、そのまま宿泊する予定だという。
私は学校の授業が終わってから、部活を仮病で休んですぐにそのホテルに向かった。
そのホテルは,私でも名前を知っている高級ホテルで、広いロビーに入るときはどきどきした。
ロビーに入ってすぐに、自分の制服姿がとんでもなく場違いなことに気づいた。歩いている人は皆、一目で上等だと分かる質感の服装を着こなし、ゆったりとした動作でホテルの空間を楽しんでいた。
ラウンジに出入りしている人に混じれば多少はまぎれるだろうかと、知らない人の後ろを歩いて奥に向かう。
宿泊階へ行くエレベーターが見えたところで、ホテルマンに声をかけられた。
「宿泊のお客様ですか?」
どうしよう、と思って立ちすくんでいると、背後からスーツ姿の男性が近づいてきた。篠田だった。
「私の連れです」
ホテルマンは篠田を見て、にこやかに頷いた。そしてエレベーターに案内してくれた。
エレベーターの中に入ってから、私は篠田を見上げる。
「ありがとうございました。入れないところでした」
と言ってから、なぜ私がこの時間に来ることを知っていたのかと疑問に思う。
篠田から電話で言われたのは、ホテル名と部屋番号だけだ。
「ロビーで待っていてくれたんですか?」
「いえ……」
篠田は歯切れ悪く言ってから、話を変えた。
「天野さんはこの後予定がないはずなので、部屋でくつろいでいると思います。ブザーを鳴らしてみて下さい」
私は頷いて見せた。
ひとりでエレベーターを降りた。篠田は他のフロアに向かうという。
ふかふかのカーペットの上を歩き、教えられた部屋番号を探しながら、だんだん不安になってきた。
ゆっくりしているところを、二度と会わないと思っていたはずの私が来たら、あの人は驚くだろうか、それとも怒るだろうか。
それでも会ってみたい、と思う。
なぜか、あの人は私のことを私よりもよく知っている気がした。
1109号室を見つけた。
思い切ってブザーを鳴らすと、意外にすぐに室内で動く気配がした。のぞき穴からわざと見えない場所に立って待っていると、ドアが開いた。
「なんだ、篠田か?」
綿パンにシャツという大学生のようなラフな格好の天野が出てきた。
天野はドアの横にいる私にすぐ気づき、目をみはった後、急いで周囲を見渡した。
「世奈? なんでここに? ひとりか?」
天野が混乱しているうちに、私は部屋の中に滑り込んだ。「ちょ、待て」天野が慌てて私の手をとろうとしたが、振り切って室内に入った。
「あなたに、聞きたいことがたくさんあるんです。話ができるまでは帰りません」
早口に言うと、天野は顔をしかめて何やら考え込んだ後、ゆっくり扉を閉めた。
「篠田だな。今日の当番はあいつだ……」
天野がぶつぶつ言いながら部屋の奥に入る。玄関のすぐ奥はテーブルとソファだけの部屋になっていて、窓から都心が見下ろせた。その左側にベッドルームがあった。
「私が篠田さんに無理を言ったんです。ごめんなさい」
篠田が解雇されたりしたら大変だと思い、急いで言う。天野は、両手を軽くあげて見せた。
「まあ、いいよ。とりあえず座って」
促されてソファーに座る。天野が部屋に備え付けてある紅茶を淹れはじめた。
「それで、あー、元気だったか?」
久しぶりに会った親戚のようなことを言う。私はくすっと笑ってしまった。
「ええ。この一週間は大きな怪我もなく」
散歩中の犬に噛まれた足首の傷、街路樹が折れてかすった額の傷は新しくできたものの、最近ではごく軽度の部類に入る。
紅茶の入ったカップをふたつテーブルに置きながら、天野が私の額をちらっと見たのが分かった。天野は砂糖とミルク、スプーンをテーブルに並べてくれる。
私はお礼を言ってから紅茶にミルクを入れた。カップの中身をティースプーンでかき混ぜるのを、天野はじいっと見ていた。
「私、いつも見られているんですよね?」
天野がさっと目をそらした。「え、何て?」私はもう一度言い直す。
「誰かがいつも私を見ているんですよね」
天野は一瞬止まってから、自分の紅茶を一口飲んだ。
「それは、篠田が?」
「いいえ。あなたは私の怪我のことをすべて知っている。誰かがいつも見ているとしか思えなかったんです」
天野は苦虫を嚙み潰したような顔をした。天野はカップを持ったまま立ち上がり、窓辺に寄り掛かる。カップを無意味に回して中の紅茶を振って、きつく目を閉じてからゆっくり開いた。
「……俺は、」
「はい」
天野が細く長い息をついた。
「嘘が苦手なんだ。君に会ったら特に嘘をつけないと思っていた。だから、嘘をつかなくてもいいように、接触しないよう細心の注意を払って過ごしていた」
窓の外には、飛行機雲が白く、長く、続いている。
「世奈には気分が悪いことだと分かっている。でも、君に命の危険があるときに、気づけないのは嫌だったんだ。監視をつけている。すまない」
天野の口ぶりからは、ここ一年ではないと思った。
「いつから?」
「……君を見つけたときからだ」
私が次の言葉を待っていると、天野は観念したように付け加えた。
「君が九歳のときからだ」
八年前から?全く気付かなかった。
今にしても、誰かがいつも見ているというのは憶測でしかなかった。天野の言動からそう感じてはいたものの、学校でも下校途中でも人影すら見えないことは頻繁にあった。
ふと気づいた。篠田はホテルのロビーにちょうど良すぎるタイミングで現れた。
「今日の監視は、篠田さん?」
天野が頷く。なぜそこまで、という言葉が口をついて出た。
会社の部下を使って、常時見張らせるほどの価値が私にあるとは思えなかった。私はただの高校生だ。
九歳の時、私はこの人と会ったことがあるのだろうか。
この人を知っていると感覚的に思った。それがもし正しいとすれば、この人と九歳の私の間に何かがあったのだろか。
「君が、他人の不幸を身代わる人間だからだ」
意味が分からなかった。
天野は私を見つめ、よどみなく話し始めた。
「昔は『依り代様』と言ったらしい。周囲の人間や環境に起こるはずの不幸を、自分に集めて傷つく。
結果的に周りの人間や集落は天災や人災からまぬがれることができる。昔は『依り代様』を奪い合って手元に置いて守り神にしたこともあったし、もっと時代が進むと『依り代様』という存在が忘れ去られて、逆に迫害の対象にもなった」
天野の口調は、淡々としていた。
「その力は十代中頃から始まって、どんどん強くなる。命に関わるような怪我をするようになったのは、ここ最近だろう?」
私は頷いた。
周囲の不幸を身代わる――。
信じがたい話だけれど、確かに今の私の状態を示していた。私だけに起こる事故や事件は、本当なら他の人に起こってもおかしくないはずなのに、私を狙いうちしてくる。
「あなたは、そういう人間を保護しているの?」
そうとしか考えられなかったので訊いたのだが、天野は虚を突かれたような顔をした。
「……まあ、そういうことになる」
妙な言い方だった。微妙に違うのだ、と思った。
天野はこちらから訊けば応えるくせに、説明するのをなるべく避けている。まだ一番の疑問である、なぜ私を助けるのかが分からないままだ。私は苛立った。
「保護して、私をどうするつもりなの。利用するため? それとも、私を憐れんでいるの?」
私は冷めきった紅茶のカップを少し乱暴にテーブルに置いた。
天野が、まるで頬に張り手でも食らったような、不意に傷ついたような顔をして、罪悪感が胸にちくりと刺さった。
「違う。俺は……」
天野は苦しそうに口を何度か動かした後、私の向かいのソファーに座り直した。
「どうするつもりかと言われると、説明するのは難しい。俺は……今度こそ、君を死なせない方法を探している」
天野はテーブルの上のどこでもない空間を見ていた。
「これまでに色んな方法を試してきたが、どれもだめだった。それでも何か方法はないかと、会社を立ち上げて大きくして、世界中の知識を集めてみた。
けれど、呪いなのか、祝福なのかすらも分からない。君がいつもひどい死に方をするのを、」
天野がふと物思いを断ち切るように言葉を切り、顔を上げて私を見た。
天野は明らかに、しまったという顔をしていた。
私は体が震えるのを抑えられなかった。ひどい死に方をする。それは、「私」のこと?
「私」は、何度も死んでいる?
自分の輪郭が急激に薄れ、ぼろぼろと端から崩れていくような気がした。急に恐ろしくなって、私は立ち上がった。
「世奈、」
天野が制しようとしたが、私にはそれすらも怖かった。
足元のスクールバックを手にして、部屋から駆け出す。扉を乱暴に閉めたとき、天野が扉の内側で「痛っ!」と言うのが聞こえたが無視して、エレベーターに駆け込んだ。
ホテルのロビーを出た後、さっきの会話を振り切るように走った。
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