第2話 私は、この人を知っている

「あの……。名前を、教えてもらえませんか」


 ルームミラー越しにふたりの表情をうかがう。スーツの壮年の男性が、若い男性をちらりと見た。若い男性は、一瞬迷ったような間を空けてから答えた。


「俺は天野。こっちの運転しているのは篠田」


 簡潔だった。そして、それ以上聞いてほしくないような空気を感じた。

 何故この人が何度も助けてくれるのか、自分が危険にさらされた場面にやってくるのか。

 聞きたいことはいくらでもあったが、私はその問いを飲み込んだ。代わりに、違う言葉を続ける。


「私は宮沢世奈です。助けていただいて、ありがとうございました」


 頭を下げる。天野と名乗った若い男性が、ミラー越しに私を見ているのを感じた。


「行き先は、ここから遠いんですか?部活で来ているので、十一時までに戻らないと、先生が探してしまいますので」


「車ですぐの場所です」篠田が答える。「学校には上手く言っておきますから、時間は心配しなくて大丈夫です。もちろん、あなたが望まないなら、さっきのことは話に出しません」


 胸元を通った刃物の感触を思い出した。


「……学校には、言わないでほしいです」


 大ごとにしたくなかった。根掘り葉掘り状況を聞かれ、またあの生徒かという反応をされるのはうんざりだった。


 篠田は「分かりました」と応えた。


「篠田、家で彼女の手当てをして帰してくれないか。俺はタクシーを拾って帰ればいいし」


 天野が篠田に言う。

 天野が言っていることは、篠田という壮年で強面の男性と密室でふたりきりになるということで、しかも私はシャツ一枚だ。

 天野ならともかく、少し抵抗があった。思わず両手を握りしめていると、篠田が「いえ、」と言い出す。

 

「それは私でない方がいいでしょう」

「え?」

「さっきの今ですから」


 天野は少しの間、篠田の顔をじろじろ見ていたが、すぐににやりと笑った。いたずらっぽい笑みだった。


「あー。お前、顔怖いしなあ。お前ももうそんな歳か」


 明らかに面白がっている口調に、篠田がむっとした顔をする。


「あなたに言われたくないですね。とにかく、私は彼女の着替えを買ってきますから、その間に手当てしてあげてください」


 どうやら破れた服のかわりを用意してくれるらしい。


「何から何まですみません」


 再度頭を下げると、篠田が憮然とした表情で応える。


「いえ、あなたが謝ることは何もありません」


 車は海際の太い道路を進んでから、江ノ島電鉄の踏切を越えて、内陸の住宅街に入っていった。

 この辺りは観光地だけれど、夜遅くまで開いている店は極端に少ないので、人通りはほとんどない。車は右に左に何度か曲がりながら山のふもとまでやってきた。

 車が止まったのは、一軒の家の前だった。


 天野と一緒に車から降りた。

 その家は周囲の建物から少し離れた場所に建てられた洋館だった。

 玄関は丸いアーチで飾られ、二階のバルコニーにはテーブルとイスが置かれていた。家の中は真っ暗で、人の気配を感じない。家というよりは、別荘のような印象を持った。

 天野が鍵を開けて入る。


「右のリビングで座ってな」


 右側の扉を開け、電気のスイッチを手探りで点けた。ふんわりしたソファーに座る。

 やわらかい背もたれに体重を預けながら、ふう、と息をついて、ようやく体の緊張が解けていくのを感じた。

 清潔に整えられた別荘、さっきの高級車。

 天野という人は、一体何者なのだろう?

 若く見えるが、篠田が敬語を使っていたことを考えると、天野の方が立場が上なのだろう。

 資産家の一族には、どうしても見えない。彼から滲む雰囲気は、恵まれた人間が持つ楽天的で強気なものではない。むしろその逆で、何かに耐えているような、諦めてさえいるようなけだるい気配を感じる。

 天野が救急箱を持って戻ってきた。ソファーの隣に座る。


「こっち向いて」


 顔を差し出すと、天野が真剣に頬の傷を確認する。消毒液で血を洗い流し、丁寧に傷を覆ってくれた。


「出血のわりに傷は浅いな。これならきれいに治るだろう。他には?」


 そういえば、頭を殴られた。反射的に右の頭部に手をやる。

 手を上げたとき、サイズの大きいシャツの袖が下がって、手首から肘までの肌が出た。腕の内側には、この間ガラス器具が破裂した際にできた真新しい傷がある。

 天野はそれを見て、唇を引き結んだ。

 私はとっさに腕を下ろして傷を隠した。けれど、天野の表情は変わらなかった。


「……天野、さん」


 今なら聞いてもいいような気がした。


「あなたは、どうして私を何度も助けてくれるんですか」


 天野は静かな目で私を見守っている。私の中の、何もかもを見透かしているような目だった。

 今の私の疑問も、不運に対する怒りも不安も、天野に対する奇妙な親しみも、この人はすべてわかっているのではないかという気がした。

 天野は一度目を伏せて、口を開き、何も言わずに閉じた。

 天野が私を見つめながら、おそるおそる、腕を伸ばしてくる。その気になれば私がいつでも避けられるくらい、ゆっくりした動作だった。

 壊れ物を扱うようにそっと天野に抱きしめられたとき、私は、その腕のあたたかさに泣きそうになった。

 からだの形、日向の乾草のようなにおい。私は、この人を知っている。それはほとんど確信だった。

 ずいぶん長い間そうしていた気がした。服越しに体温が伝わってきた頃、玄関で音がした。天野が急に体を離す。


「あのっ……」


 何か言おうとしたが、私は途中で言葉を切った。天野の顔からはすべての感情が消えていた。

 玄関から足音が聞こえてくる。


「君の前には二度と現れない。だから、俺のことは忘れろ」


 はっきりした口調だった。

 天野が立ち上がるのと、リビングのドアが開いて篠田が入ってくるのは同時だった。

 篠田が持ってきてくれた新しい服に別室で着替えた後、私は、篠田の運転する車で移動した。

 家を出るときに天野の表情を伺ったが、天野はリビングのソファーに座ったまま、もう私を見ようともしなかった。

 私の希望で、篠田は家まで送ってくれるという。

 車の助手席に乗りながら、私の中は不安と疑問でいっぱいだった。

 何もかもが分からなかった。絶対に何かを知っている風の、あの天野という人は、私を何度も助けておきながら、二度と会わないと言った。

 彼は何者なのか。あの人は、私に降りかかる不運の理由を知っているのか。


「あの……。篠田、さん」


 黙々と運転する篠田に向かって、私は勇気を出して話しかけた。


「教えてくれませんか。天野さんは、なぜ私を助けてくれるんですか?」


 篠田は私をちらりと見てから目線を前方に戻した。


「あの人は、何と?」


 低い声で返されて、私は首を横に振った。


「申し訳ないですが、あの人が言わないことを、私から伝えることはできません」


 その口調には私の混乱を受け止めるようなやさしさがあって、私は少し驚いた。

 話すことを拒否されているわけではないようなので、別のことを訊いてみる。


「篠田さんは、天野さんの……ボディーガードか何かなんですか?」


 篠田が苦笑した。思わず漏れてしまったようで、篠田はすぐに笑みをしまい込んだ。


「いえ、あの人にボディーガードは必要ないですね。私は彼の経営する会社の部下です。秘書のようなことをしています」

「会社? 経営?」


 オウム返しで訊いてしまった。天野はどう見ても三十前の若者で、社長だということがすぐには結びつかなかった。

 しかし考え直してみると、年長者である篠田へのぞんざいな物言いや高級車、別荘などがしっくりきた。

 けれど、なんとなく浮世離れした雰囲気の天野が、経営手腕を発揮している姿は想像できなかった。


「何ていう会社なんですか?」


 会社名が分かればまた会えるかもしれない、と期待を込めて訊いてみる。

 私の問いに、篠田は何かを感じ取ったようだった。急に機械的な口調になった。


「色々です。けれど、彼の名前は表には出てきません」


 どうやら彼は、素性を知られたくない人のようだ。

 私は窓の外を見やる。いつの間にか家の傍に来ていた。

 車から降りたら、天野と名乗る人との接点が全く無くなってしまう。

 焦る気持ちが湧き出てきて、それと一緒に、怒りのような悲しみのようなどろりとした感情が胸をはねた。


「篠田さん。天野さんは、二度と私の前に現れないと言いました」


 私が急に大きな声を出したので、篠田はぎょっとしたようだった。ハンドルを慎重に握りなおすのが見えた。


「でも、でも……あの人は私のことをずっと前から知っている。そうでしょう?私が怪我をしてばかりなのも、偶然のような事故に遭うのも、知っている」


 腕の傷を見たときの天野の表情は、驚きではなく悲しみだった。

 彼は、私の体に無数の傷があることを知っていたのだ。


「なのに、あの人は、私に何も言わずに遠ざけた。納得いきません。どうしたら、あの人にもう一度会えますか?死ぬほどの大怪我をすれば、また会えますか。例えば今、この車から飛び降りたら?」


 篠田は呆気にとられたような顔をしたが、やがて、面白くてたまらないというように、くくっと笑った。

 篠田を覆っていた慇懃な薄い膜がはがれて、ようやく見えた人間味のある表情だった。


「いやあ、世奈さん。あなたは、予想以上ですね」


 それはつまり、篠田も私のことを以前から知っているということだった。

 私の家の近くまできたところで、篠田は公園脇に車を止めて、走り書きのメモを渡してきた。篠田の電話番号だという。


「私はね、世奈さん。あの人が望まないことはしないんですよ」


 篠田は含みのある口調でそう言った。


「本当のところ、あの人はあなたに会いたくて仕方ないんです。ずっと待っていたのに、いざあなたが目の前に来たら、どうしたらいいか分からないんだと思います。素直じゃない人ですからね」


 まるで兄弟を紹介するような口調だった。


「あの人がひとりになるときが分かったら連絡します。その番号を登録しておいてください」


 私は篠田に自分の電話番号を伝えて分かれた。

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