一章 16番目の私・1

第1話 名前も知らないあなた


 私はその頃、とてつもなく不運だった。そしてその日も、不運によって死にかけていた。


 あ、と思ったときには駅のホームから転げ落ちていた。

 通学鞄が黄色い線の上に落ち、手に持っていた携帯電話が宙を舞い、真新しい制服のスカートがひるがえる。そういうひとつひとつの出来事が、コマ撮りのように目に入ってくる。

 電車が駅の端に入ってきたのが視界の端に入り、ああ、死ぬんだな、とまるで他人事のように冷静に思った。


 線路の上に叩きつけらそうになった瞬間、誰かに抱えられて線路の向こうに投げられた。ゴーッという轟音とともに、足先すれすれを電車の車輪が横切っていく。

 呆然として地面に顔をつけていると、

「怪我は?」

 という声が上から降ってきた。


 顔を上げると、サングラスをかけた男性が私を覗き込んでいる。男性は二十代の後半ぐらいだろうか、ラフな身なりをしていた。

 大丈夫です、と言うと男性は静かに息を吐き、手を差し出してきた。


「立てるか?ここは危ないから、移動した方がいい」


 私は男性に支えられて立ち上がった。男性は日向のようなにおいがした。

 そのすぐ後、駆け付けた駅員に怪我の有無や名前を聞かれているうちに、その男性はいなくなってしまった。


 四月、高校に入学してすぐのことだった。

 お礼を言いそびれてしまったけれど、たぶん、もう彼に会うことはないのだろうなと思っていた。

 けれど予想に反して、私はその後、何度も彼に会うことになる。

 


 二度目は、同じ年の冬だった。

 そのとき、私はバスに乗っていた。吹奏楽部に入部して、冬休みの練習日だった。トランペットの入ったケースを膝の上に置きながら、高校までの坂道を窓から眺めていた。

 隣で人の気配を感じて顔を向けた瞬間、首から胸にかけて熱を感じた。

 感覚の異常さに、とっさに腕を体の前にあてると、制服のシャツが見る見る赤く染まっていった。

 一瞬遅れて傷口に激痛が走る。

 様子に気づいたのか、バスに乗り合わせた人が悲鳴を上げる。私の目の前には、包丁を持った男が立っていた。

 悲鳴に呼応するようにバスは急停止した。

 乗客のサラリーマンと、駆け付けた運転手が包丁を持った男を羽交い絞めにするのを見ながら、私は急激に寒さとめまいを感じ、座席から崩れ落ちた。

 次に気づいたときは、知らないベッドの上にいた。

 かろうじて目を薄く開けると、暗い空間に消毒液のかおりがして、病院だと思い当たった。周囲の闇の濃さから、深夜だと思った。

 全身が鉛のように重く、指先を曲げるのも瞼を開けるのもおっくうで、頭のなかにもやがかかったように思考が鈍っていた。再度瞼を閉じたとき、部屋に誰かが入ってくる気配がした。


「命に別状はないとのことです。ただ傷痕は残るだろうと」

「……そうか。犯人は?」

「現行犯で逮捕されました」


 低いささやき声が聞こえる。丁寧な口調の年配の男性と、応える若い男性の声だ。


「個室はここしか空いてないとのことですが、よかったですか」

「いい。急患をねじ込んでいるから、あまり無理を言わない方がいいだろう」

「そうですか」


 少しして、ひとりが出ていく気配があった。私はぼんやりした意識の中で、なにかひっかかるものを感じていた。

 足音がひとつ近づいてきて、ベッドの隣の椅子が動く音がした。誰かがすぐ脇にいる。

 その人は、ずいぶん長い間私を見ていた。視線を感じて肌がぴりぴりするようだった。

 ふ、と吐息のような声がした。


「……残るか」


 手が、頬を撫でるのが分かった。日向に置いた乾草に似たにおいがする。

 その人がつい、と離れていき、部屋を出て行ってから、駅で助けてくれた人だと思い当った。

 後から聞いた話だと、どうやら私は特殊な方法でその病院に入院したようだった。怪我をした場所の周囲の病院がどこも満杯で、たらい回しにされた後、急遽受け入れが可能になった最寄りの病院に戻ったのだという。

 両親は、私の怪我を聞きつけて病院にやってきて、曇った顔を見せた。娘が怪我をしたという理由だけでないことは明らかだった。

 高校生になった頃から、私は頻繁にトラブルや事故に巻き込まれるようになっていた。 

 工事現場のガラスが降ってくる。家が放火されてボヤが出る。ひったくりに遭い転んでけがをする。満員電車の中でスカートと足をカッターで切られる。

 どれも大ごとにはならなかったが、立て続けに起こる不運を、両親はどうやら運ではないと考え始めたようだった。つまり、私の自作自演ではないかと。

 無事でよかったわ、と母が言うが、その目には、得体のしれないものに対する警戒心が透けて見えていた。

 何をしでかすかわからない娘の様子を伺っているのだと分かった。

 疑われていることに気づいてから、私は両親に対して、本心を見せられなくなった。誰よりも、私の怒りと疑問を受け止めて欲しい人たちだったのに。


 なぜ、私ばかりがこんな目に遭わないといけないのか――。

 そんな思いを抱えたまま、相変わらずトラブルに遭いながら、私は高校二年生になった。

 その頃には、いつもどこかに怪我をしている状態が普通になりつつあった。

 

 夏のある土日、部活の合宿で一泊二日の日程で江の島に行くことになった。

 海、と聞いて真っ先に思い浮かんだのは水難事故だった。

 ぎこちない笑みを浮かべて貸し切りバスに乗る私を見て、途中のパーキングエリア休憩で、翔太が友人の輪からすうっと離れて私の顔を覗き込んできた。


世奈せな、酔ったか?」


 翔太は幼い頃からの付き合いで、成長とともに以前のように屈託なく接することは減ったけれど、今でも私が困っているとさりげなく助けてくれる友人だ。

 翔太に言わせれば、私は「しっかりしているようでいて実は危なっかしい」そうで、私を妹のように気遣ってくれる。

 翔太はもともと音楽が好きだったけれど、高校で同じ吹奏楽部に入部し、同じトランペットパートになるとは思わなかった。

 翔太は、私がぼんやりしているから怪我をしているのだと思っていて、部活の合間なども体調の心配をしてくれている。

 翔太には気づかれていない事故や服の下の怪我もたくさんあるのだが、心配をかけたくないのであえて伝えないようにしている。


 ーーどうやらこの不運は、周囲の人を巻き込まず、自分だけに降りかかるものなのだと、徐々に感じ始めていた。


 理科の実験で破裂したガラス器具も、倒れてきたブロック塀も、ほんの一メートル離れた人にはかすりもしなかった。

 部室の腐った床を踏み抜いたのも、椅子のパイプが折れて刺さったのも私だけだった。その前に何人もの人が使っているものなのに。


「ううん、大丈夫。酔い止めは飲んだから」

「そ。一日中練習だから、気をはれよ」


 翔太が言った通り、合宿のほとんどの時間は練習だ。江の島にある生涯教育センターに宿泊するといっても、海水浴をする予定も時間もない。

 バスが現地に到着したのは昼すぎだった。夕食を挟んで夜も練習し、入浴後、消灯までの一時間だけが自由時間だった。

 センター内には自売店がないので、施設から歩いて三分ほどの場所にあるコンビニに出かける生徒が何人かいた。引率の先生はセンターの出口で出かける生徒の顔を確認していた。


「ね、お菓子買おうよ。ごはんが六時だったから、お腹すいちゃった」


 同室の紗子がそう言ったので、私たちはコンビニに向かった。ジャージ姿でセンターから出るとき、先生から暗いから気を付けてね、と声をかけられた。

 菓子パンとチョコレートのスナック菓子、飲み物を買って店を出る。

 コンビニから出ると、店内の真っ白く強い照明とは対称的に、ぼんやりしたオレンジ色の光が道路から橋の向こうまで続いていた。

 店舗から道路を挟んだ向こう側に、コンクリートの壁がある。黒々とした海が、ざわめきながら横たわっている気配がした。


 ふと、足元がぐにゃりと歪んだような錯覚に襲われた。

 水面を見ながら思ったのは、目の前の光の沿岸に縁どられた夏の海ではなくて、崖に面した、寒々しい冬の海だった。

 生き物の匂いが濃密な海の上を、肌を切るような冷たい風が吹きすさび、風に乗って雪が舞う。曇天から落ちた雪は、黒い海に吸い込まれて消えていく――

 その光景は一瞬で過ぎて行って、すぐにもとの夏の海が戻ってきた。

 私は頭を軽く振り、今しがたの錯覚を追い払う。疲れているのだろうか。

 と、紗子が私の顔をじいっと見ていることに気づいた。もしかしたら、かなり長い間ぼうっとしていたのかもしれない。


「え、何?」


 慌てて聞くと、紗子は眉根をひそめた。


「世奈さあ、なんか、最近変だよね。悩み事?」


 どきりとする。考えないで首を横に振った。


「いや、今のは、ちょっと、ぼうっとしていただけだから」

「ふうん?」


 紗子がコンビニのビニール袋をかさかさと鳴らしながら私に背を向けて、センターに向かって歩きだす。


「とりあえず戻ろ。先生も待ってるし」

「うん、」


 そうだね、と言おうとしたのに言葉にならなかった。

 口を何かが塞いでいる。

 それは、人の手だった。

 叫ぼうとした瞬間、真後ろに立っていた誰かが私の頭を殴った。ぐあん、という衝撃と共に意識が白みかける。紗子の背中が遠くなっていく。

 地面に倒れた私を、誰かが引きずってコンクリート壁の向こうに投げ込んだ。

 壁の向こうは、テトラポットに囲まれた小さな空間になっていた。壁と背の高いポットの隙間は、道路から死角になっていた。

 その誰かは、私の上に馬乗りになった。この暑い時期に、マスクと帽子を着けている。


「静かにしろ」


 低いささやき声と共に、頬に冷たいものが押し当てられた。肌がぴりっと痛み、刃物だと分かる。

 男は私の腕を抑えたまま、持っていたナイフで私のTシャツを切りはじめた。

 腹部の薄い皮膚を、刃物の背がなぞっていく。死が皮膚の上を通っていることにぞっとした。たとえ脅されていなかったとしても、声なんて出なかった。

 男が私の胸元を見て毒づいた。

 私の左鎖骨の下から右胸には、三十センチ近い大きな傷痕がある。その痕は、肌の上でひきつれていて、鏡を見るたびに落ち込むほど醜い。

 まあいいか、と男が言いながら私の下着に手をかけたとき、何も見たくなくて、目をきつく閉じた。

 男の息が顔にかかったとき、突然叫び声が聞こえ、体が自由になった。

 目を開けると、黒い空が見えた。急いで上半身を起こすと、マスクの男がすぐ横でうずくまっていて、それを見下ろしている人がいた。

 その横顔は凍り付きそうなほど冷たい表情を浮かべていた。

 すぐには、目の前にいる人と、駅で助けてくれた人が同じ男性だと結びつかなかった。あまりにも恐ろしい顔をしていたから。


「このクソガキ…。ただですむと思うなよ」


 その人は、起き上がろうとした男の腹の下に靴先を突っ込み、男を仰向けにした。間髪入れず、みぞおちの当たりに肘を下ろす。ぐえ、という声がして、男は動かなくなった。

 昏倒した男を前に動けないでいると、その人がこちらを見た。さっきまでの冷たい表情は消え、やわらかい目に戻っていた。

 男性は自分のワイシャを脱いで、私の肩にばさりとかけた。


「怪我は顔だけ?他に痛むところは」


 うまく声が出なかったので、私は首を横に振った。男性がほっとしたように息を吐いた。

 その人はポケットから携帯電話を出して、どこかに電話をかけた。一言、二言会話しただけですぐに電話を切り、座り込んだままの私に手を差し出した。

 その手を素直にとる。指先が男性に触れた瞬間、その手をよく知っているような、奇妙な感覚がした。

 その人に支えられてコンクリートの壁を乗り越えると、道路に黒塗りの外国車がとまっていた。見るからに高級そうな、この場所にそぐわない車だった。


「篠田。この向こうだ、頼む」


 男性が、車の前に立っているスーツ姿の人に声をかける。四十代ぐらいだろうか、がっしりした大きな男の人で、短い髪をきっちりまとめ、鋭い目をしていた。

 篠田と呼ばれた人が首肯し、さっきまで私がいた場所に向かうのが見えた。


「とりあえず、座って」


 その人が車の後部座席のドアを開け、私に座るよう促した。言われるがままに座ると、座席がふわりと沈んだ。

 体が動いた拍子に肩にかけているワイシャツがずれて、下着が丸見えになる。

 ドアの前で立ったままの男性の視線が気になって、シャツに腕を通した。ボタンをとめようとするが、今になって手が震えてしまい、うまくできない。


「…貸して」


 男性がかがんで、シャツの襟に触れる。

 どきりとしたが、男性は表情を変えることも私の体も、胸の大きな傷すらも見ることもなく、まるで小さな子供にそうするように、真剣な顔でボタンをとめていった。

 きっちり一番上から下までボタンをとめてから、その人は私の顔を見る。


「世奈」


 名前を呼ばれた。

 なぜ、とは思わなかった。この人はきっと、私のことを良く知っていると感じていた。


「君が嫌がることは絶対にしないし、必ず帰す。だから、安心していい」


 ゆっくりした口調には、私を気遣う気持ちがあふれていた。


「本当ならすぐに帰したいところだけど、先に怪我の手当てをしたい。終わったら、センターか自宅か、好きな方に送る。いいか?」


 私は頷いた。

 その人が後部座席のドアをゆっくり閉め、助手席に乗り込んだところで、スーツ姿の男性が戻ってきた。


「顔と免許証を撮ってきました。これで大丈夫でしょう」


 篠田と呼ばれていた人が言いながら運転席に乗った。オレンジ色の街灯の下を、車が走り出す。

 昼間からずっと練習していたセンターがあっという間に遠ざかっていき、車は橋を渡った。江の島の外に向かっているようだった。

 どこに行くかは分からなかったけれど、私は不安を感じなかった。

 この人は信頼できる、と確信していた。

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