第7話 ふたりで暮らすことを選んで
目が覚めたとき、ベッドの横に睦月がいた。
ずいぶん長い間そこにいたのだろうか、睦月はゆっくりした動作で椅子から立ち上がって、「痛いか?」と訊いた。
全身が重く、体のあちこちに違和感があったが、痛みではなかった。
首を振ろうとしたが、上手く体が動かない。
「麻酔がまだ効いているんだ」
なぜ麻酔を、と思ってから、自宅で起きたことを思い出した。
「お母さ、たち……は」
喉がからからで声が出にくい。絞り出すように言葉をつなげると、睦月がそっと手を取った。
「父親は、まだ集中治療室だ。母親は……亡くなった」
亡くなった、という言葉を聞いて、そんな、と思う一方で、やはりという気もした。
玄関に倒れていた母の肌色は、生きている人間のそれには見えなかった。
涙があふれた。
最近、母とはまともに話していなかった。どうしたらいいか分からなかったのだ。
こんなことになるなら、もっと早くすべてを打ち明けていたのに。
睦月は私の手を取ったまま、ベットの端を見つめていた。
翌日警察が来たので、ベットの上から男に襲われた状況を説明した。
刑事だという人たちは、痛み止めの薬が切れる度に苦しむ私に、長時間の間、何度も同じ話をさせたがった。最後の方は、看護婦が「いい加減にしてください」と追い返してくれた。
私の傷は思ったより深く、一週間入院した。
入院している間に、母の葬儀は叔父が行ってくれた。叔父は入院している間に一度病院に来て、母の葬儀を行う旨と父の様子について教えてくれた。
父は私と同じ病院に入院しているが、まだ意識が回復していないという。いつ何が起こってもおかしくない状況のようだった。
起き上がれるようになって、すぐに父の病室へ行った。
病室には入れなかったが、ガラス越しに父を見ることができた。父は全身がチューブにつながれていて、かなりショックな姿をしていた。もう父は目覚めないかもしれない、と思った。
テレビでは私の家の惨事がニュースになっていた。
テレビで見たところ、私と両親を刺した男は現行犯逮捕されていた。男は母の知人だという。
母と何かトラブルがあり、母と自宅で話していたところ、帰宅してきた父に出くわして口論となり、刺してしまったらしい。それを見て逃げ出した母のことも続けて刺したと。
男は、母の不倫相手だったらしい。叔父が事務的なやり取りを一度しただけで、病室に寄り付かない理由が分かった気がした。
母の死を素直に悲しむ気持ちがある一方で、これまで平凡で平和だと信じていた家が実際のところずいぶん前から気味の悪いものに変貌していたことは、私に戸惑いと乾いた冷静さをもたらした。
こころに薄い膜がはって、感覚が鈍くなったような気がした。
母は死に、父は意識を取り戻さない。祖父母はすでに亡くなっていて、他の親戚とはあまり親しくない。
だから、毎日病室に来るのは睦月だけだった。
睦月は、面会時間が終わる直前に毎日病室を訪れた。
なぜ夕方なのだろうと最初は不思議に思ったが、どうやら一番人が少ない時間を見計らっているようだった。
着替えや印鑑などの必要なものは、何故か睦月が全部用意してくれた。睦月が用意する新品の着替えは、ピンク色だったりキャラクターがついていたりと、随分子供っぽかった。
「私がいたから、こんなことになったのかな」
ピンク色のパジャマを眺めながらぽつりと言うと、睦月はとんでもない、と首を振った。
「逆だ。君がいたから、父親は死ななかった。君の不運は、周囲の人間の代わりに被るものなのだから」
そっか、とつぶやいてから、少しだけ気が楽になった。
入院して五日目、睦月に「退院後、どうする?」と訊かれた。
睦月が調べたところによると、親戚の中では私の行き先を決めかねているらしい。
睦月は言わなかったが、誰が私を引き取るかで揉めているようだった。睦月は、行きたい場所があれば「それとなく」相手を誘導することもできると言った。もしくは、自分のところでもいいと。
「そんなこと、できるの?」
親族でも何でもない人間が引き取り手になれると思わなかったので尋ねると、睦月は何でもないという顔で答えた。
「やろうと思えば、いくらでも方法はある」
遠い親戚よりも、奇妙な親しみのある睦月に身を寄せる方が、私にとっては自然だった。
私は、睦月のところに行くことを選んだ。
何をどう手続きしたのか分からないが、睦月は――正確には、「天野」という戸籍の男性は、私の正式な後見人になった。目覚めない父の治療費も睦月が負担した。
事件の経緯が経緯なので、私の元には警察だけでなくマスコミの人間からもひっきりなしに連絡が来た。
好奇心を少しも包み隠さない赤の他人からの言葉は、私の心のやわらかい部分をこそぎ落としていった。
睦月は、全ての連絡先を変えて、学校も変えた方がいいと勧めてきた。
私はごく親しい数人の友人にだけ新しい住所を教え、引っ越した。
引っ越しといっても、苦しい思い出がへばりついた実家のものを持ってくる気にはならず、ほとんどは新しい土地で買いそろえたので、思い出の品と少しの服だけの身軽なものだった。
引っ越し先は神奈川県の海際だった。睦月が、海と山どちらが良いかと訊いて、私が海と答えたからだった。
睦月は色んなところに色んな名前で家を持っていて、私の住む家はそのうちのひとつらしい。睦月も一緒に住むという。
母の死と、容態が良くならない父の病状と、引っ越しを含む環境の変化があって、私は、自分に余命についてとりあえず考え込まなくなった。目前の明日で手一杯なのは、今の私にとってはプラスに働いた。
睦月と暮らすことは、自分でも驚くほどしっくりした。
朝、私が作った朝食をふたりで食べて、私は学校に行く。夕方に睦月が買い物をして、夕食を作って私を待っている。
余命に想像がついてしまった今、学校に行くことにもはや何の意味があるのか、ちらりと考えなかったわけではないけれど、こういうときに日常的なことをするのはなんだか安心した。睦月も当然のように学校の手続きをしてくれた。
睦月は家にいたまま、PCや電話で部下に指示を出しているので、基本的にいつも在宅していた。一週間に数回ほど、篠田がやってきて睦月に色々と報告していた。
ふたりは私が家にいてもいなくてもリビングに資料を広げて話していた。ふたりとも、私に対して何かを隠すようなことはもうしなかった。
報告は、おそらく睦月が生業としているのだろう株や通貨の価格変動についてだったり、私の父の病状についてだったり、古い文献の調査結果だったりした。
父の病院にはマスコミが張り付いているので、私は気軽に見舞いに行けなくなっていた。篠田が来るたびに父のことを聞くと、容態は安定しているが、まだ意識が戻らない状態が続いているという。いつ目覚めるのか、医者にも分からないそうだ。
「文献って?」
「……『依り代様』のことだよ。国内外の伝承を集めている」
夕食の後に紅茶を飲みながら訊いてみたら、言いにくそうに睦月が答えた。睦月は私の体質について、調べ続けているらしい。
「今回もあまり関連しない情報だったけどな。民俗学の予算助成制度を作って、学者が調べた内容をもらっている。社内にチームを組んで、各地の神社や博物館を独自に調べてもいる」
ダイニングテーブルに向き合って、私は紅茶にミルクを入れた。食後に睦月とお茶を飲みながら話すのが最近の習慣になりつつあった。
「睦月って、すごく長く生きているんでしょう?」
「ああ」
「どのくらい前から?」
睦月は首を傾げて斜め上を見やった。
「正確には分からない」
年号や時代の名称は、後の人間がつけたものだからだという。けれど、付け足しのように「女の髪が地に着くくらい長いのは、今思うとずいぶん不便そうだったな」と言う。
それは戦国時代以前なのではないだろうか。
いつもくったりしたワイシャツとパンツ姿で、ぼうっとした大学生のような風貌の睦月が、着物を着ている様子を想像できなかった。
そして、その頃から『依り代様』について調べているのに、見つからないということは、そういうことなんだろう。
「俺は諦める気はない」
私の顔色を察したのか、睦月が強く言った。顔を上げると、睦月の瞳が私を覗き込んでいた。あたたかい、強い意志を持った、けれど寂しい目だ。
この目は、今、私を通して過去を見ているんだと思った。
睦月の瞳に含まれる、親愛のようなものは、私個人に向けられたものではおそらくない。過去に脈々と続く私だった人たちに向けられているのだろう。
けれど、その目で見られると、胸がいっぱいで息ができなくなるような気持ちになった。
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