通奏低音としての恐怖

存思院

停止は死に至るか

 女の子を意味もなく口説くという当面の日常生活におけるタスクが物理的に実行不可能であるほどに忙しい祭日のアルバイトもし、駅の改札に歩いて向かうとき、私の心理は空白に直面した。先ほどまで、やるべきことは洗うべきグラスの数よりもあって、私の頭は最高効率を求めて観測と計算と予測を繰り返し、時々、切りすぎたらしい前髪を気にする可愛い先輩――幼げになってむしろ魅力的にうつる――の目を無目的に見つめるブレークタイムはた迷惑な奇行のほか私の精神は常に未来に存在していたのだが、社会的な役割から、集団から、離脱した生き物としての私個人には、やるべきことなど本来的にないので、精神が現在に引き戻されたのである。

 当然、生きるために色々と考えたり、作業をする必要性は生じるものの、「とりあえず今は考える必要がない」という刹那、やりたいことも、暇さえあれば鍛錬すべき何かもない一瞬、いわばプレーンな今その瞬間に留まるとき、耐えがたい恐怖が姿を現すことを知っているだろうか。

 改札の前で足を止め、恐怖がちらつくと、私の精神は即席な未来に逃げ込んだ。ファミリーレストランでワインを飲みつつ読書でもしようか、いやせっかくだから古着でも買いに行こうか。

 ただ今日に限って、あまりの忙しさに油断していたらしい自我は、私の精神を陥れるだけの魅力的な提案を用意できず、堂々巡りの脚と思考は行く当てなどないことを見せつけられる。


「お前には、やりたいことも、やらなければならないことも何もない」

「お前には、何もない」


――ここで、何もない空白の今、プレーンな最小単位の心理において、私は不幸に滑り落ちる。未来が輝かしくないとき、死にたくなる。

 私が自殺に至っていないのは、純粋な信仰が自殺の定義を明確にしているからだ。スピリチュアリストにとって自殺は消滅にも逃避にもならないもので、ただの状況の悪化を意味する。観念構築体としての物理的宇宙の概念も同じことを示唆している。

 すべての聖典は停止としての死、そして復活を命令している。


 そうでなければ、つまり自殺とは消滅か幸福の可能性だという一般的な概念に従えば、当然の帰結として破滅的選択に収斂してしまうのが私だ。


 私にとって神なき停止は死に至る。


 もっとも、他人はそうでもないらしい。

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