第5話 満月の夜に

 夜が来た。


 時計が八時半を指し示すと共にメルリアは宿から飛び出した。


 駆け足で約束の場所に向かう。月明かりに照らされる看板と、己の記憶を頼りに。今見てしまうのは勿体ないと、夜空に浮かぶ満月には絶対に目を向けなかった。


 湖の方向と、エピナールの村を指し示す看板があった。昨日は夜中だったせいで気づかなかったが、看板は微妙に傾いており、相当昔に造られたものだとうかがえる。

 少し足を止め、それらに目をやるメルリアだったが、ひとつひとつをじっくりと見ている暇はなかった。


 周囲の木々が赤い実をつけており、そこからは甘い匂いがする。やがて、頬を、手を、体を抜ける風が冷たく変わっていく。木々の向こうから、薄黄色の優しい光が顔を覗かせた。もうすぐだ。メルリアは確実に歩んでいく、


 森を抜け、視界にあの湖が広がった時、彼女ははっと息を呑んだ。


 まずはじめに気づいたのは、昨日よりも明るいということ。たったわずかな月の満ち欠けの違いだというのに、決定的に光量が異なっていた。湖に映る月はかすかに光の軌跡を描きながら、確かにそこに存在している。


 メルリアは空を仰ぐ。雲のない空に眩しいほど光る月の姿があった。そのまま視線を落とし、湖に落ちた月を見つめる。そこには夜空と変わらぬ姿が映し出されていた。


 たった一日――たった一日だというのに。それなのに、こんなに変わって見えるんだ……メルリアはしばし、その光景に心を奪われていた。


 メルリアは湖に駆け寄ると、水面に両手を浸す。

 湖の水は想像よりもずっと冷たい。両手を伝って背筋が震えた。


 一度水面から手を引き、今度はゆっくりと湖に両手を浸す。両手で水をすくい、角度を変えてみた。ゆらゆらと揺れる歪な形の月が、メルリアの手の中にあった。


 月に触れてみたいと、子どもの頃夢見ていた事を思い出す。そんなことは不可能だからと諦めていた夢が、まるで叶ったかのようだ。

 手のひらの中の月を見つめているメルリアの表情が自然と笑顔に変わっていた。


 手のひらから水の冷たさが徐々に消えていく。メルリアはすくった水をゆっくりと湖に返した。

 手を浸した場所から波紋が静かに広がる。湖の中にある月がわずかに揺れた。その揺れが収まるまで、メルリアはずっと水面を見つめていた。


「……本当に来たのね」


 濡れた手をハンカチで拭っていると、聞き覚えのある声がする。振り返って声の主を確認すると、メルリアの表情がぱっと明るくなった。立ち上がろうとしたが、昨日の女は黙ってメルリアの傍に腰掛ける。


 メルリアがどうやって声を掛けようと悩んでいると、女は先日と同じように、湖の月を見つめながら口を開いた。


「運が良かったわね。今晩も風も雲もない」


 女は静かに目を伏せる。まるで周囲の風の声に耳を傾けているように。


 メルリアの鼓動が早く変わっていくが、それを悟られぬよう、なるべく普段通りを意識して口を開く。


「湖も、月も、すごく綺麗で……。あの、教えてくれてありがとうございました」


 つい大きな声で喋ってしまいそうになる。そんな衝動を抑えながらメルリアは言うと、女は目を開いた。


「何を言っているの? 私がこの場所を教えたわけじゃないでしょう」


 女はわずかに首を傾げてメルリアに問う。メルリアは静かに首を振った。


「満月のことです。私、昨日が満月かもって思ってたので」


 そう、と女はそっけない相づちを打つと、湖の月を眺めた。赤い瞳がわずかに揺れる。

 喜んでいるのか、悲しんでいるのか――表情からは感情が読み取れない。ただただ淡々としていた。


「それに、一緒に月を見ることができて、嬉しいです。会えるか分からないって話でしたから」

「私と話がしたかったの?」


 女は湖から視線を外そうとはしない。


 メルリアは静かに「はい」と頷いて答えた。

 女はメルリアの表情を窺う。メルリアは笑っていた。ただただ、嬉しいという感情をそのまま表したような笑顔で。その顔を見てようやく、女はメルリアに視線を向ける。


「どうして?」


 女は軽く腕を組み、メルリアに尋ねる。責めるような口調ではなかった。困っている様子でもなかった。その声は、やはり淡々としている。純粋に答えが知りたかったのだ。


 メルリアは苦笑いを浮かべた後、膝の上に置いた手を重ねる。


「はっきりとは分からないんですけれど、もっとお話ししたいなって思って。なんていうか……」


 メルリアの青い瞳と、女の赤い瞳。ふたりの視線が合った時、メルリアは胸の奥にあったモヤモヤの正体に気がついた。


「そうだ、なんだか懐かしい気がするんです」


 女は言葉を返さず、ゆっくりとメルリアの言葉に耳を傾けていた。自分の中で彼女の言葉を消化するように、動かず、何も言わなかった。


 もう少し説明したほうがいいだろうか、とメルリアは悩む。

 その最中、木葉が音を立てずにふわりと宙を舞い、土の上へと落下した。傍の木の枝が軋む。それは音のないこの空間には目立ちすぎる音だった。


 メルリアは音のした方を見る。中形の鳥が木の枝に留まっているようだ。

 夜の暗さ、それから月の逆光のせいでシルエットが黒く塗りつぶされ、メルリアはその正体には気づけない。何だろうと目をこらしていると、傍で小石を踏みしめる音がした。


「……さて、と。私はもう行くわ」


 女が立ち上がると、メルリアも咄嗟に立ち上がる。

 何か声を掛けなければ、すぐに背を向け立ち去ってしまうことは明らかだったからだ。


「あ、あの、ありがとうございました!」


 メルリアは頭を下げる。その様子を女は静かに見つめていた。


「その……。またどこかで、会えたらなって」


 メルリアの頭の中から慌ててひねり出した言葉はどこか途切れ途切れでたどたどしい。そんなメルリアの様子を見た女はフッと笑う。


「そうね」


 女は少しだけ高い声でそれだけ返した。メルリアの言葉には同意も否定もせず、彼女に背を向けて歩き始めた。


 小石を踏みしめる音が次第に土を踏む音に変わっていく。耳を凝らさなければ聞こえないような小さな足音を聞きながら、メルリアは小さくなっていく女の背中を見送った。


 ひとりになったメルリアは、再び湖に浮かぶ丸い月を見つめる。


「また、どこかで会えたらいいな……」


 今度こそ、きちんとまとまった言葉を呟いた後、メルリアははっとした。


 あの人のお名前、聞いておけばよかった。


 メルリアは振り返り、湖の出口――木々の奥の闇を見つめる。足音は聞こえない。もうずっと遠くに行ってしまったのだろうか。メルリアは肩を落とす。

 しばらくしてから、胸の中でもう一度呟いた。


 またどこかで会えたら。

 会えたら、その時に聞こう。

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