第4話 エピナールの朝2
教会の裏手を少し進んだ場所にそれはあった。
色とりどりの花が咲く花壇の奥には、無機質な、しかし存在感のある灰色の墓石が点々としていた。墓石に供えられた花束やロウソクがメルリアの視界に入る。
人の気配が少ないせいで、小鳥のさえずる声が村の中よりもより大きく聞こえた。その声が悲しげに響くのは、人の別れから連想する感情のせいだろうか。
メルリアは教会内部とはまた違う空気が流れているようだと感じていた。
墓参りに来ていた初老の女が、ハンカチで目を拭いながら男の横を通り過ぎた。女は村の中心部へと戻っていく。枯れ草を踏む足音が消えた時、男は変わらぬ穏やかな声で言った。
「通路の雑草を抜くのを手伝ってくれるかな?」
男はメルリアに作業用手袋を渡した。すっかり顔色の戻ったメルリアは神妙な顔で頷くと、男から作業用手袋を受け取る。
「腰を痛めちゃってから、どうにも手が回らなくてね。結構、背の高い雑草が増えてしまっているんだよ」
男は通路に視線を向けた。メルリアもそれに倣って視線を向けると、程度の差はあれど、あちこちの通路に雑草が生え始めていた。
物によってはメルリアの膝に届くほどまで伸びた雑草もある。春先は植物が育つ時期だ。手入れを怠れば、みるみるうちに雑草は葉を伸ばし、根を深めてしまう。
「頑張ります」
「よろしくね」
道に落ちているものがあったら触らずに私に教えて、と付け足した男の言葉にうなずくと、メルリアは薄汚れた作業用手袋に指を通す。少しぶかぶかのそれを両手にはめると、作業に取りかかった。
通路脇に生えていた背の低い雑草を引き抜くと、白い根とともに大量の土が地面から抜けた。その場所にはぽっかりと小さな穴が空いている。根から土を取り除き、土をその穴に戻すと、また違う雑草に手を伸ばした。
土の湿ったにおいが鼻を刺激する。すると、浅い地面を這っていたミミズが飛び出した。メルリアは突然のことに驚き、尻餅をつきそうになるが、なんとか持ち直す。
彼女の住んでいたベラミントの村はそこかしこにリンゴの果樹園があった。そのため、虫は見慣れているし怖くはない。が、今のように全く動じないわけではなかった。
根の浅い草、根が深く抜きづらい雑草、どれも一生懸命抜いていく。メルリアは時折視界に入る墓石に、祖母の姿を思い出していた。
おばあちゃんだったら、自分が眠る場所が綺麗になったら喜んでくれる。だから、ここに眠っている人もきっと嬉しいはずだ。だから頑張らないと……。
メルリアは気を引き締め、せっせと手を動かした。
抜いた雑草がこんもりと小山を作った時、メルリアは甘い花の香りに顔を上げる。
すぐ左隣にあった墓石には、白と黄色の花束が供えられていた。
しかしその中に目を引く茶色がひとつ。目をこらしてよく見ると、花束の中央にある花の一つが枯れている。
周囲の花とは形が違うようにも見えるが、すでに茶色く変色しており、しぼんでいる。その上、触れただけでも崩れそうなほど乾燥していた。この枯れた花が元々どのような形状だったか判別がつかない。生き生きとした花の中央にぽつんとある色あせた茶色は、不自然な存在感を放っていた。
カラスが枝を大袈裟に揺らし、夕方を告げるように低い声でカァカァと鳴く。
メルリアは空の色の変化にも気づかないほど作業に没頭していた。服の袖で額の汗を拭うと、背後から穏やかな声がかかる。
「ありがとう、ご苦労様だったね。もう十分だよ」
メルリアはその声に顔を上げる。男の顔、そして背後に広がる橙の空の色を見て、今が夕方だと気づいた。
「あ、あの、まだ全部終わってなくて……」
作業の終わっていない右奥の通路を見ながら、メルリアは肩を落とす。しかし男はゆっくりと首を振った。
「明日には息子夫婦がこの村に帰ってくるんだ。彼らに手伝わせるから大丈夫だよ。本来は彼らの仕事だからね」
「分かりました。ありがとうございました」
メルリアは深々と頭を下げると、すっかり土がこびりついてしまった作業用手袋を手から外す。
そのままでいいという男の言葉に従い、メルリアは申し訳なさそうに土のついた手袋を男に手渡した。
男は代わりにと皮袋を差し出す。そこからわずかに金属の擦れる音が聞こえたメルリアは、咄嗟に手を横に振った。
「受け取れません! そんな……」
「子供の小遣い程度なんだがね」
「わ、私がご迷惑をおかけしたせいなのに!」
メルリアの言葉を聞いても、男は渋い顔を浮かべたまま引き下がろうとはしない。
皮袋をずいっと押しつけてくるような仕草に、メルリアは一歩後退した。手のひらは否定の意を示すようにぶんぶんと横に振り続けたままだ。
困ったように眉を下げ、視線を泳がせるメルリアがはっと顔を上げる。横に振っていた手が止まった。
「あ、あの! ひとつ、教えて欲しいことがあるんです」
「なんだい?」
「あちらの……少しご立派なお墓の、花束なんですが」
メルリアは、先ほど見かけた供えられていた花束のことを男に話す。すると男はその墓石の方へ視線を向け、ああ、と呟いた。
「あれはね、三百年くらい前にここの神父様だった方のお墓だよ。毎年この時期になると、誰か知らんが必ず同じ花束を供えに来るんだ。私の父も、私の祖父も、私の曾祖父も見たと言っていたよ。恐らくその前も、そうなんじゃないかね」
男は昔を思い返すように空を仰ぐ。
「……お供えしている方がどなたか、ご存じですか?」
恐る恐るメルリアが尋ねると、男はわずかにうら寂しい表情を浮かべた。
「いいや。見たことはないね。ウィンストン様にご縁のあった家系の人か……」
あるいは。
男の中に、一つの仮説が浮かぶ。しかし、そんなことはないだろうと頭を振った。
こちらを静かに見つめるメルリアに微笑みかけ、男は「花のことだけれど」、と切り出す。
「私もずーっと見てるわけじゃないから正確なことは分からんけど、中央の花は昼頃には枯れてしまうんだよ。不思議だね」
「そうですか……」
メルリアはそれだけ答え、男と共に三百年前の神父の墓石へ視線を向ける。
枝に留まっていたカラスが飛び立つと、葉を大きく伸ばした細い枝がぐらんぐらんと不安定に揺れた。橙色の空にカラスの黒色のシルエットが大胆に浮かんでいく。その様を目で追っていると、男は思い出したように手を打った。
「それはさておきお嬢さん、謝礼」
再び硬貨がかすれる高い音が響く。メルリアはそれを聞くなり、びくっと体を震わせた。
受け取ることはできない。しかし、こういう時のお年寄りは頑固である。こちらが折れなければ、服の中にでも無理矢理押し込んでくるのだ。メルリアはよく知っていた。
タバサ夫妻の食堂でメルリアが働いていた時、よくある風景だったからだ。旅立ちの日の前日、給料を多く渡してきた事は記憶に新しい。いらないといっても持って行けと引かず、うまく話題をそらせたと思ったら財布が重かった――なんてことに昨晩気づいたばかりだったのだ。
メルリアはまた一歩後退し、何か解決策がないか頭の中を巡らせる。話題を逸らすことには成功したが、その後戻ってしまった。この後の話題はない。
となれば。
メルリアは男に一度頭を下げる。
「お、お世話になりました! ごめんなさい!」
もう一度深々とお辞儀を繰り返した後、男に背を向けその場から走り去った。
逃げるしか選択肢がないと思ったのだ。
「……ただ働きさせてしまうとは、申し訳ないことをしてしまったなぁ」
遠くへ消えてゆくメルリアの背後を見つめながら、男は一つため息をついた。
この辺りでは見ない顔だ。外国に住んでいる風ではなかったから、恐らく他所から来た娘なのだろう。よその村の人間がこの村に来る理由のほとんどは教会への参拝だ。
彼女とは二度と会えないかもしれない。男はため息をついた。
そしてはっと顔を上げる。これでは昼間と立場が逆じゃあないか。
男は一人でがははと笑うと、メルリアに渡そうとした皮袋を懐に収めた。
皮袋の中では硬貨が寂しげに音を立てた。
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