第3話 エピナールの朝1
「ん……っ」
心地の良い日差しがメルリアの体中を照らす。寝返りを打つと、ふわりと柔らかい布団が体を包んだ。
普段聞こえるベッドが軋む音がしない。違和感を覚えたメルリアはゆっくりと目を開いた。真っ先に目に入ったのは薄茶色をした木目の天井だ。普段見ている天井の色よりずいぶんと薄い。それに、目覚めると一番に目が合う、人の顔のような模様が見当たらない。
ここ、どこだろう。働かない頭の中、メルリアはぼうっと不思議な天井を見つめる。そのまま三十秒間、ベッドの上で動かずにいた。脳が覚醒していくにつれ、昨日の出来事を徐々に思い出していく。
――そっか。エピナールの村に着いた頃にはもう既に日が暮れていたんだ。
偶然迷った先で綺麗な湖を見つけて、赤い瞳の女の人に出会って、お話をして……この湖から近い宿に案内してもらったんだった。
メルリアは宿に着いた先のことを思い出そうと頭を捻るが、それ以上の記憶がうまく思い出せなかった。肉体的な疲労に加え、新しいことを経験し続けた精神的な疲労のせいで、ベッドに横になるなり気絶するように眠ってしまっていたからだ。
しかし、そんな中でもはっきり覚えていることがある。昨晩、女と交わした言葉の数々。そして、叶わない可能性を充分に含んだ、約束に似た何かのこと。
メルリアは、湖で出会った女にどこか惹かれていた。顔立ちや佇まいといった容姿や、会話の間の取り方、どこか謎めいた雰囲気――それに加えて、女には不思議な魅力があった。
理由は分からないけれど、私はもっとあの人と話がしてみたい、知りたい、と、漠然と感じていた。
メルリアは一度大きく深呼吸をした後、立ち上がる。緑色のカーテンを勢いよく開けると、部屋中に朝日の温かい光が差し込んできた。日を浴びたまま大きく欠伸をし、腕を上げぐっと背伸びする。
彼女の一日が始まった。
宿から出た道をまっすぐ下ると、エピナールの村がある。
エピナールは小麦が有名な村だ。ベラミントの村にあちこちに果樹園があったのと同じように、ここには各所に小麦畑がある。
時期になれば実をつけ黄金色に色づく小麦も、今は青々とした鮮やかな緑色の葉を伸ばしていた。葉鞘から顔を出した小穂が、穏やかな風を受けてゆっくりと揺れた。
麦畑全体が風に揺れると、まるでそこに波が立っているかのようだ。
地元では見られない風景に、メルリアはわあ、と感嘆の声を上げる。
つい足を止めてその様を眺めるメルリアの背後から、気のいい女の声が聞こえた。
「エピナールの村は初めてかい?」
メルリアが振り返ると、そこには中年の女が立っていた。抱えている茶色の紙袋からは、太く長いパンが顔を覗かせていた。メルリアは女に軽く会釈する。
「来たことはあるらしいんですけど、記憶にはなくて。初めてじゃないんだけど、初めてみたいな感じです」
「そうかい、そうかい。ここはいいところだよ。なんたって、このヴィリディアン国の中で一番温かい村だからねぇ!」
女はがはは、と豪快に笑い、メルリアの背中をぼんぼんと強く叩いた。
それじゃあね、と大きく手を振る女に、メルリアは顔の横で小さく手を振った。女の後ろ姿を見送った後、メルリアは一度大きく息を吐く。自分の身の回りにはいないタイプだったせいか緊張してしまった。けれど、名前も素性も知らない自分に親切にしてくれて、嬉しく思った。
細く高い建物、大きな黄色の鐘、汚れのない真っ白な壁。遠くから見ても一目でそれは教会だと分かる。身が引き締まる思いを感じながら、メルリアは教会で感謝と祈りを捧げた。
しんと静かな空間には、かすかな人の足音と気配しか存在しない。衣擦れの音ですら申し訳なく思ってしまうほど、あの空間は静寂に包まれていた。音を立てないよう細心の注意を払いながら、メルリアはその場を後にした。
広場には人々の笑い声が溢れていた。
教会を出たメルリアは、温かい日差しを受けながら大きく息を吐いた。自分でも気づかなかった緊張が一気に押し寄せてきたからである。
それにしても……。メルリアは空を仰いだ。今朝方会った中年の女の言葉を思い出す。女はエピナールをこの国一温かい場所だと言っていた。教会とは村に暮らす人の困りごとを請け負う場所でもあるが、そこにいる修道士や修道女は誰しも優しかった。
感情が荒立つ事なく、淡々と村に住む人の話を聞き、冷静に相談に乗る姿。問題が解決したと礼を伝える人に微笑みかける人々の笑顔はとても温かい。教会にいた神父も穏やかな人だ。この村の優しさは、教会の雰囲気が与える影響が大きいのかもしれない。
雲一つない快晴の空を見て、メルリアの頬が自然と緩んでいく。今は風も吹いていない。もしかしたら、今晩あの湖から見ることができる月は格別かもしれない、と。
メルリアは気分のいいまま歩き出そうとすると、人とぶつかりそうになって慌てて足を止めた。
「ご、ごめんなさい!」
慌ててメルリアは頭を下げる。メルリアのすぐ側には、腰を曲げた老年の男が立っていた。
男は穏やかな顔をしている。謝るメルリアに否定の意を表すべく首を横に振ろうとした。が、首を左に向けたところで硬直してしまう。
「うっ」
まるで得体の知れない柔らかい物体を踏みつけたような苦い顔と、喉に物でも詰まったような低い声に、メルリアの顔はますます青ざめていく。メルリアは再びごめんなさいと頭を下げた。
男は何か言葉を発したかったが上手く声にならなかった。男は痛みを感じていた。曲がった腰に手を回す体力すらないほど、ただひたすら痛い。若い頃はこんな感じで体がつったような、と、走馬灯のような何かが男の脳裏を駆け巡っていく。
老年の男は気が遠くなるような痛みに襲われていた。
次第に腰の痛みが引いていく。辛うじて体が動かせるようになると、声を掛けてきたメルリアの表情を窺った。
「おじいさんごめんなさい……、大丈夫ですか?」
メルリアはまるで年代物の彫刻を手違いで壊してしまった時のように、口に手を当て顔が青ざめていた。
「いやいや、お嬢ちゃん、大丈夫だよ……。もう治ったと思ったぎっくり腰が、また、また、ね、突然ね、あいたた……」
「わ、私が前を見ていなかったばっかりに」
「お嬢ちゃんは悪くないから、ね」
男はひたすら慰めるが、メルリアは引かない。腰の痛みも困ったが、このままこの若い子にこの世の終わりのような顔をさせてしまうのも忍びない。
男は頬を掻きながら悩んだ時、はっと顔を上げた――途端に腰に痛みが走り、時間を置いてからゆっくりと顔を上げる。痛み始めた腰をさすった。
「いてて……そうだ、私の仕事を少し手伝ってくれないかな?」
「私にできることなら何でも!」
食い気味に身を乗り出すメルリアに困惑の表情を浮かべながら、男は仕事場へとメルリアを案内した。
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