第2話-2 幾望の夜に

 メルリアは顔を上げ、左隣に座る女の表情を窺った。穏やかに、ただただ静かに、女は水面を見つめている。声を掛ける事が躊躇われたが、メルリアはゆっくりと尋ねる。


「あの……。あなたは、ここによく来るんですか?」

「年に一度だけ、付き合いでこの村に来るの。用事を済ませている間、私はここにいる」


 女は淡々とそう言った。水面が再び揺れ、女の長い髪が空気を含みふわりと風に舞う。

 話をしていても、水面が揺れても、女はメルリアと目を合わせることはなかった。ただただ、目の前に映る湖畔の月に視線を向け続けていた。


 会話が途切れ、沈黙が訪れる。メルリアも女も、それ以上何か言葉を口にはしない。沈黙があまり得意ではないメルリアだったが、今日だけは違った。

 普段と異なる焦りや居心地の悪さは感じない。今の感情は普段の真逆だと気づいていた。


 メルリアも女に倣い、水面に映る月を見つめる。木々の葉が擦れ反響し、水面の月が霞むように歪んだ。包み込むような音が消えたかと思うと、次第に水面は丸い月を正確に映し出していく。


「あなたはどうしてここに来たの? 女の子が一人でこんな真夜中にいるなんて、危ないわ」


 本で読んだ知識を喋るような、どこか他人事のような口調で女は言う。心配するような口調とは程遠い声色だった。

 わずかな距離に気づかないメルリアは、照れくさそうに頬を掻きながら、恐る恐るといった風に話し始める。


「たまたまです。実は、色々あって道に迷っちゃって……」


 メルリアは、自分が祖母のために探し物をしているということ、探し物のためにヴィリディアンを旅することにしたこと、道中で三人の人助けをしたことを、女に順を追って話していった。


 メルリアも女も、湖畔に映る月を眺めたまま、お互いの顔を見ることはなかった。しかし話の途中でメルリアに興味を持った女は、不思議そうに彼女の顔に視線を向ける。


 メルリアがその視線に気づいたのは、ここに来るまでの経緯を話し終えた後だった。メルリアと女の視線が合う。すると、女はくすりと笑った。


「……面白い子ね。自分の事はいいの? 日暮れまでにたどり着けなかったらどうしようって考えなかった?」

「そこまで考えてなくって」


 メルリアは苦笑するが、自らの行いを後悔していなかった。まだ宿は見つからないけれど、こんなに夜は更けてしまったけれど、あの人たちを放っておけばよかったとは微塵も思っていなかった。

 ありがとうとメルリアに微笑みかける人達の顔。思い返すと胸の奥が温かくなる。メルリアはその温かさを感じながら言った。


「私がどれだけのことができたかは分かりませんけれど……。誰かの役に立つのは、やっぱり嬉しいなって思うんです」


 メルリアの言葉を聞いた女の瞳がわずかに揺れる。湖畔を眺めていたメルリアは、女の表情の変化には気づけなかった。


「そう……」


 女は身近な人物の存在を思い浮かべながら目を細める。相づちの声は、女の心から出た穏やかな声だった。


「それに、今日じゃなかったら、こんなに綺麗な月は見られなかったと思うんです。今日は満月かな」


 湖畔に浮かぶ丸い月、それから空に浮かぶ丸い月を交互に見ながらメルリアは呟く。


「まだ満ちてない。満月は明日ね」


 しかし、女ははっきりとメルリアの言葉を否定した。月の端がわずかに欠けている事に、女は気付いていたのだ。


 そうですか、とメルリアは寂しげに呟き、笑う。メルリアの視線が自然と女から逸れた。


 少しだけ残念だと思う気持ちと、これだけ綺麗な物が見られたのだから満月ではなくても構わない、という二つの気持ちが入り交じる。寂しい気持ちを振り払い、笑顔を作ろうとした時、女がぽつりと呟いた。


「明日も来る? もっとも、今日のように凪かどうかは分からないし、雲がないという確証もないけれど」


 その言葉を聞いたメルリアの作り笑顔が、ぱっと本物の笑顔に変わる。女の方に視線を向けた。

 しかし、脳裏によぎった明日の自分を思い浮かべ、膝の上に置いた手を弱く握りしめた。先ほどとは正反対の感情で心臓の鼓動が徐々に早く変わっていく。メルリアは女の表情を窺う。


「せっかくなので、明日も来てみようと思います。あなたは明日、いらっしゃるんですか?」


 女はその言葉に目を見開き、何度か短い瞬きを繰り返した。一度小さく息を吐いてから言った。


「そうね。都合がつけば、明日の九時頃に来るわ」


 淡々と言う女の言葉であったが、メルリアの表情は更に明るくなる。無意識に女の手を取って笑いかけてしまうほどに。突然のことに女はどういう反応をしていいか判らなくなり、ただただメルリアに握られた手を見つめることしかできなかった。


「待ってます。またお話ししたいです」


 女の身につけている白い手袋が月明かりに光る。メルリアはその布の感触に注意を向けられなかった。もっとこの人と話がしたいと、直感的にそう思った。

 だからこそ、話ができるかもしれないという状況をとても嬉しく感じていたのだ。女は喉元まで出かかったいくつもの言葉を飲み込み、抑揚の薄い声で言う。


「あまり期待しないでね」

「はい!」


 女が明日の晩ここに来ない可能性もある。メルリアはそれをきちんと理解していた。だがその表情は来ないことを全く考えていないような顔だった。そんなメルリアに女は苦笑を浮かべる。けれど、握られた手を女は自ら離そうとはしなかった。

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