第2話-1 幾望の夜に
メルリア・ベルは世話焼きである。それが長所であり短所でもあった。
メルリアがエピナールへ向かっていると、空から突然財布が降ってきた。メルリアは地面に落ちた財布を拾いあげる。革袋の薄汚れたそれはずっしりと重い。
疑問に思い空を見上げると、ほうきに乗って空を飛ぶ魔術士の運び屋が、ふらふらと危なっかしい軌道を描きながら飛んでいた。
メルリアは慌ててここ数年出していなかった大声を上げ、財布を持ちながらその魔道士を追いかけた。二十分にも及ぶ働きかけにより、ほうきを操縦しながら眠っていた魔術士は目を覚まし、無事メルリアから財布を受け取った。
気を取り直して再びエピナールへ向かうメルリアは、街道から少し外れた道で茂みを探す女性の姿を見つける。
どうしたのかと尋ねると、女性が一緒に旅をしていた愛犬がいなくなってしまったという。街道は安全ではあるが、道の脇にある茂みや森となると話が異なる。
攻撃的な野生動物や魔獣に襲われるかもしれないからだ。とはいえ女性を放っておくこともできず、メルリアは女性と共に人が入ってもギリギリ安全な範囲で犬を捜した。
奥へ奥へと入ろうとする女性を宥めながら一時間捜索を行ったが、犬は見つけられない。しかし数十分後、街道を巡回していた衛兵が発見し、保護したところで犬捜しは解決した。
極めつけに、「ママが帰ってこない」と泣きわめく五歳の男の子の面倒を、母親が探しに来るまで付き合った結果、すっかり夕方になり、空は眩しいほどの橙色に染まっていたのだった。
「えっと……。確か、こっちだった、はず……」
メルリアは一人、街道を進んでいた。「この先、エピナールの村」と書かれた看板を暗がりの中なんとか解読し、真っ暗な道を歩いていく。
この国の街や村の周辺には、魔獣を避ける対策が施されている。人間の生活圏に影響を与えないよう、かつ野生動物の生活圏を侵さないよう、魔術士が街道と森の間に薄い結界を張っている。
とはいえ、その効果は街道を行く人間の姿が認識できなくなるだけであるから、普通に街道を通る野生動物や魔獣が道を堂々と歩いている様は珍しくない。
左方の森から獣の呻く低い声が聞こえ、メルリアはびくりと肩をふるわせた。
大丈夫だろうかと不安になるが、未だに宿らしきものは見当たらない。それ以前に、道と森以外の存在が認知できていなかった。
旅を決めた初日からよく分からない場所で野宿だろうか――メルリアの脳裏にそんな思考がよぎる。それだけは避けたかった。とにかく明るい場所へ出なければ。
メルリアは目をこらし、光のある場所を探しながら前へ前へと進んでいく。しばらくすると、頬を冷たい風が撫でた。
右から? メルリアは風の吹く方へ目を向けた。右方数百メートル先、木々の間にわずかに光が見える。足元の地面をよく見ると、道が二手に分かれていた。右へと別れている道はそちらへと道が繋がっている。
行ってみよう。メルリアはその方面へと足を進めた。
森を、木々を抜けると、一気に視界が開けた。そこには巨大な湖が広がっている。
風が止むと、水面が満天の夜空を鏡のように映し出す。時折湖の魚が跳ね、ぽちゃんと静かな音を立て、その水鏡を曖昧な形に揺らした。メルリアが光だと思っていたものは人工的なそれではなく、丸く湖を照らす月明かりだったのだ。
そこにたどり着いたメルリアは、言葉を失っていた。エピナールにある湖の存在は知っていた。けれど、こんな綺麗な場所だったなんて知らなかった。メルリアがその光景に目を奪われていると、彼女の視界の端で人影が動く。
「……早かったのね。もういいの?」
湖のほとりに腰を掛けていた女は、そう言いながら立ち上がった。女がメルリアの姿に気づくと、緩めていた表情を引き締めた。しかしすぐに苦笑を浮かべる。
「ごめんなさい、人違いだったみたい」
メルリアはその言葉にはっと我に返る。だが、声を掛けてきた女を見て、再び言葉を失った。
幻想的な湖を背に立つ女性――闇夜に紛れるかのような黒い服に身を包んだその人物に、メルリアは目を奪われていたからである。彼女はメルリアより明らかに年上だが、まだどこか少女のような雰囲気を漂わせる顔立ちをしていた。すらっとした立ち姿。特徴的な赤い瞳。髪は胸まで長さの、癖のあるセミロングヘアー。異性ならば目を留めない者はいないだろう。
同性であるメルリアすら、その女の姿は美しいと感じてしまうほどであった。
「そんなにじっと見て……、私に何か用?」
「ご、ごめんなさい」
再び女の声で我に返ったメルリアは、女に慌てて頭を下げる。
「綺麗だな、って思って」
女は背後の湖に視線を向けると、目を細めて笑う。
「そうね。そんなところにいないで、もっと近くに来て見てみたら?」
手招きされるまま、メルリアは女の傍まで歩いて行く。女が凹凸の少ない大きな石の上に腰を下ろすと、メルリアも手近な石の上に腰を下ろした。
冷たく固い感触に少し驚くが、目の前の景色にその感覚は飲み込まれる。そんなことは、どうだっていいと感じたのだ。
メルリアは、吸い込まれるように湖の水面を見つめた。湖に近づくと、月がもっと大きく見える。
湖のすぐそばまで行けば、絶対に触れることのできない月に触れられる、子供のような夢を叶えられるような――そんな気さえした。
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