正体は知っている

三鹿ショート

正体は知っている

 彼女が私に近付いてきた理由は、察しがつく。

 かつて私が交際していた女性の無念を晴らすためだろう。

 私の恋人は若くしてこの世を去ったが、彼女はその原因が私にあるのだと思い込んでいる節がある。

 私の恋人のことを実の姉のように慕っていたためだろうが、死人を思って行動するなど、無駄以外の何物でもない。

 結論を言えば、私は無関係である。

 治療の見込みが無い病気に罹患した私の恋人は、未来に希望を見出すことが出来なかったため、自らの手で生命活動に終わりを告げたのだ。

 入院していた際は毎日のように病院を訪れていたものだが、恋人がこの世界に別れを告げて以来、私はそのような人間が存在していなかったかのように振る舞うようにしている。

 思い出してしまえば、悲しみのあまりに、動くことができなくなってしまうからだ。


***


 彼女のことは恋人から聞かされていたため、その存在は知っていた。

 だが、彼女はそのことを知らないようで、道に迷った哀れな人間を演じ、私が手を差し伸べることで、偶然にも知り合ったという物語を作ったのである。

 それ以来、彼女は私を食事に誘うこともあれば、個人の展覧会を紹介してくれるなど、私と親密になろうとしているようだった。

 そして、彼女が隣に存在していなければ耐えられないような状況を作ったところで、私を傷つけようとしているのだろう。

 彼女の企みは、分かっている。

 ゆえに、私は一時も気を緩めることなく、彼女との時間を過ごした。

 しかし、不思議なことに、私が浮かべている笑みは偽物だが、彼女の笑顔は本物のように見えたのである。

 まるで、彼女が心の底から私との時間を楽しんでいるようではないか。

 そう思ったところで、私は頭を左右に激しく振り、余計な思考を排除した。

 私が想像しているよりも、彼女が上手だという可能性もあるではないか。

 冷静さを維持するために、握り拳を作り続けていたためか、掌に爪の痕が存在していた。


***


 彼女の態度が演技だということの証明材料の一つに、私と身体を重ねようとしないということがあった。

 親しい人間を死に追いやった相手とそのような行為に及ぶなど、私ならば、想像しただけで怖じ気立つ。

 だからこそ、彼女は一線を越えようとしないのだろう。

 当然の判断ゆえに、私に不満は無かった。

 だが、不満があるとすれば、それは彼女が何時正体を明かすのかということだった。

 一体、何時まで彼女の演技に付き合わなければならないのだろうか。

 私は彼女を見る度に、かつての恋人の姿を思い出してしまうのだ。

 必ずといっていいほどに抱く悲しみを思えば、彼女との関係を早く終わりにした方が良いに決まっている。

 しかし、性質の悪いことに、彼女との関係を終わらせるための材料が無かった。

 彼女は常に私に対して気を遣い、私の気分を害するようなことを一切行わなかったのである。

 だからこそ、親しい関係から抜け出すことができなかったのだ。

 かつての恋人を引き合いに出せば、即座に解決するのだろうが、名前を出しただけで私は涙が止まらなくなってしまい、呼吸もままらなくなる。

 ゆえに、彼女から行動してくれなければ、私はこの問題を解決することができないのだ。

 だが、その苦悩を知らないのだろう、彼女は今日も、良き友人として振る舞っていた。


***


 何時しか、私は彼女から無理にでも逃れるために、酒に溺れるようになった。

 起きている間は常に飲み、吐いては飲み、眠り、そして起きれば再び飲む。

 今や、現実の世界を生きているのか、夢の世界を生きているのか、私には分からなくなっていた。

 そのような爛れた生活を送っていると何処からか聞いたのだろう、彼女は私の家を訪れると、心配そうな様子で声をかけてくる。

 しかし、私はそれを夢だと思っていたためか、かつての恋人の名前を出し、何かを企んでいるのではないかと、本人に尋ねていた。

 その言葉に、彼女は沈痛な面持ちと化すと、

「あの人から、頼まれていたのです。自分がこの世を去った後、寂しさを覚えないように気を遣ってほしいのだと」

 そこで、私の酔いは一瞬で醒めた。

 彼女の顔を真っ直ぐに見つめながらも、私はかつての恋人の姿を思い出していた。

 それは、痩せ衰えていきながらも、自身がこの世を去った後に残される私のことを案じていた姿だった。

 自分のことは忘れて、新しい相手と幸福な道を歩んでほしいと、何度も口にしていた。

 だが、私はその度に、

「馬鹿なことを言うな。何時の日か、ここを出て、共に老人と化していくのだからな」

 心中では泣きながらも、私は必死に笑みを作り、そう告げたものだった。

 しかし、かつての恋人は、己の懸念を払拭することができなかったのだろう。

 だからこそ、彼女に後事を託したのだ。

 この世界からその存在が消滅しながらも、彼女の優しさに触れることができた私は、年甲斐もなく大声で泣いた。

 彼女は無言で、私を抱きしめてくれた。


***


 かつての恋人が眠っている墓に手を合わせると、隣に立っている彼女に頷き、我々は手を繋いで歩き出した。

 未だに思い出す度に涙が止まらなくなってしまうが、忘れる必要は無いのである。

 私がかつての恋人のことを忘れない限り、私や彼女は、共に歩くことができるのだから。

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