Ⅳ 後篇(下)


 負傷したアロイスを馬車に乗せて、俺たちは家路を急いだ。

「父の許へ」

 アロイスは云ったが、魔法使いの医師に見せるほうがいい。俺たちだって人間と同じように怪我や病気になるが、魔法で治せる怪我も多いのだ。シーナが馬車の中にあったお酒を混ぜてアロイスに呑ませると、アロイスは眼を閉じて眠ってしまった。

「……馬車が少し遅くないですか、シェラ・マドレ卿」

「こちらの馬車も損傷しているのだ」

 シェラ・マドレ卿は小窓から見える前方の光景を指し示した。馬車を曳く箒は無残なほどに数を減らしており、無事な箒も瑕だらけ。御者が無事なのが奇跡なほどの、ひどい有様だ。

 さらに馬車には、卿、ブラシウス、アロイス、俺とシーナ、総勢で五人も乗っている。いつもは卿だけが使っている馬車を少ない箒で運んでいるのだから歩みが遅いはずだ。

「アルフォンシーナ」

 箒で馬車に並走していた師匠が外からシーナを呼んだ。

「おいで。そちらは失礼してこちらに乗りなさい」

「そうするわ」

 馬車の扉を開けると、シーナは師匠が差し伸べた腕に掴まって師匠の箒に乗り移った。座る場所をシーナが迷っていると師匠が後方に顎を向けた。

「高度があるのに横乗りなど。危険すぎる」

 師匠はシーナを後ろに乗せた。両腕を師匠の腰に回したシーナは夜風に髪をなびかせながら、馬車に残る俺たちに云った。

「アロイスはベルナルディの許に連れて行ってあげて。あちらにはお医者さまも居るから丁度いいわ。シェラ・マドレ卿お願いできますか」

「もちろん」

「わたしはマキシムと一足先に、ホーエンツォレアンのお屋敷に事情を伝えに行くわ。後から来て」

 シーナを乗せた師匠の箒は夜風に流されるようにして馬車から離れると、すぐに速度を上げて藍色の夜空に飛び去った。二人乗りで空中散歩か。いいな。俺もエリーゼと星空を散歩したい。その為にも、次に乗り換えるのはもう少し大きい箒の方がいい。どのみち今晩のことで折れてしまった箒の代わりが必要だ。背も伸びたことだし、もう大人用の重い箒に変えてもいいよな。師匠からはもう少し筋力がつくまではと云われているけれど。

 師匠の箒なんて吸い込まれそうな漆黒にザヴィエン家の紋章が金で入っていてカッコいいんだ。本当ならそこに『冠』持ちを示す小さな宝石も象嵌するはずなのに、ブラシウスも師匠もそういうことは嫌いみたいで一切施してない。師匠の箒に七冠を示す七つの宝石をつけたらさらに見栄えがすると想うんだけど。

 ブラシウスからして、

「せっかくだから星をつけろよ」

 『流星群』の冠を持っている彼に俺たちは勧めるのだが、「納得のいく冠が獲れたら」と職人気質のようなことを云ってブラシウスも宝石を付けようとはしないのだ。

「人間の医師に拾われた棄子だと云ったな、この少年は」

 シェラ・マドレ卿は眠っているアロイスを見つめて云った。俺たちも卿に訊きたいことがあった。今晩見た少年の姿。あれは。

「箒にも数えるほどしかまだ乗ったことがなく、魔法すら誰にも教えてもらったことがないだと」

 話を聴くなり、シェラ・マドレ卿は断言した。

「他の魔法使いには決して出来ぬ芸当だ」

 乱気流に煽られた馬車ががたんと大きく揺れた。俺とブラシウスは長椅子にしがみ付いた。シェラ・マドレ卿は眠るアロイスを見据えて低い声で呟いた。

「もしそれが本当ならば、この少年は、『偉大な魔法使い』かも知れぬ」



 明け方近くにホーエンツォレアン屋敷に到着すると、先に着いたマキシムからあらましを聴いたベルナルディが待っていて、全てを手配してくれた。師匠もシーナもそのままこちらに残って俺たちを待っていた。

 アロイスはすぐに医師と看護師が箒つきの担架で連れて行った。怪我を一瞥した医師は「軽傷だ。すぐに治せる」と請け合ってくれたので、ほっとした。俺も止血くらいは出来るけど、医療用の魔法はちょっと特殊で、知識のないものが真似をすると後々ややこしいことになるんだ。

「ブラシウス」

 シーナがブラシウスを呼んだ。

「なに、アルフォンシーナ」

 嬉しそうにブラシウスはシーナの許に駈け寄った。ここぞとばかりにシーナの手を握っている。

「お疲れさま。少し眠った方がいいよアルフォンシーナ。疲れただろう」

「ブラシウス。わたしはあなたとの約束を果たさなければ」

「なに」

「あなたは以前わたしにこう云ったわ。この次に君を助けることがあれば、デートしてくれますかと」

 誘拐された時と、そして盗賊の網から逃がした今回。

「冗談だったのに。しかし嬉しいな」

 ブラシウスは笑顔になった。暁のばら色が子爵家の庭を照らしていた。

「あの話を本気にしてくれていたとは。アルフォンシーナ嬢」

「でもそれには障害があるの」

「どんなこと」

「わたしの保護者のマキシムはベルナルディの推薦もあって、あなたのお兄さんとわたしの縁組を前向きに考えているそうなの」

「バルトロメウス兄上と。それには」

 君の身分が。

 ブラシウスはさすがに口に出しては云わなかったが、シーナはさらに続きを畳みかけた。

「わたしの家庭教師のティアティアーナ伯爵未亡人が皇太后に直談判して下さって、わたしも貴族の淑女たちが集う魔都の舞踏会に行けることになりました。十六歳から二十歳までが招待の対象だから丁度良いと皇太后も仰せになられたそうよ。そこで、あなたのお兄さまのバルトロメウス・フォン・ウント・ツー・ツォレルンさまと、お逢いするはこびになったのです」

 長年一緒に暮らしている俺にはシーナの魂胆がみえた。ブラシウスとの約束を粉砕しているところなのだ今。いかにも魔女らしいが、少し酷いぞシーナ。

「非公式とはいえ、あなたのお兄さまとそのような約束がある以上、デートのお約束の履行は難しいことになってしまったの。反故にしてもよいかしら。ごめんなさいブラシウス」

「構わないよ」

 女の子たらしのブラシウスの立ち直りは早かった。

「皇后と皇太后のご臨席を賜る御前舞踏会は未婚の男女が集う見合いの場でもあるのだから確かに丁度いい。つまり、そこには兄のバルトロメウスだけでなく、俺やテオも行くことになっている。舞踏会ではわたしと踊ってくれますね、アルフォンシーナ」

「華やいだ場所には不慣れなのであなたの足を踏みつけるかもしれません」

「そんな可愛い粗相は、男からすればご褒美のようなものですよ」

「ではそういうことで」

 云いたい放題して満足したシーナはブラシウスから離れて俺の方に来た。俺はシーナの腕を引っ張った。

「シーナ、何だよ今のは」

「なに」

「舞踏会とバルトロメウスとの見合いだよ。シーナはそれでいいの」

「舞踏会についてはティアティアーナさんが勝手に決めてきたのよ。皇太后と伯爵未亡人の顔を立てるために、ちょっと行ってすぐに帰ってくればいいだけよ。バルトロメウスという人は聴くところによると高慢ちきで、わたしのような田舎育ちの馬の骨はきっとお嫌いでしょう」

「もし気に入られたら」

「ないわよ。ご機嫌ようとお辞儀をして、さっさと箒で帰ってくるわ」

 アルフォンシーナは自分の美貌の威力をまるで自覚していない。ヘタイラと並んでも何ら遜色ないほどの美少女が着飾って現れたら、心を動かされない男はいないぞ。それに、ツォレルン家兄弟の母親のジュヌビエーブさんだって田舎のお城育ちなんだ。シーナが棄子であることなんか、男が気に入ったらなんの障害にもならないよ。

 夜明けが黄金のひかりを広げて庭園の花が咲き始めている。シーナ、俺はシーナのことが好きなんだ。エリーゼ・ルサージュのことは別にして。

 そういえば、ヘタイラは舞踏会に来るのかな。

「来るよ」

 シーナが行ってしまうと、ブラシウスは俺の質問にさらりと応えた。

「二十歳以下の未婚に該当するなら、貴族階級でなくとも特別に招待される。ベルナルディ氏もそこでルクレツィア嬢と親しくなったはずだよ」

「俺もその舞踏会に出るのかな」

 当たり前じゃないかという顔をブラシウスはした。

「君はもう子爵なんだ。招待状が届くだろうし、行かない奴なんかいない。何といっても着飾った女の子が沢山来るからね。そこで付き合う相手を見定めたり、結婚を決めてしまう者も多いんだ」

 どうしよう。

 涼しい朝風が吹いている。俺は青くなっていた。

 舞踏会でシーナとエリーゼが顔を合わせるかもしれない。



 気遣いの権化のようなベルナルディは俺たちを救出してくれたシェラ・マドレ卿に手厚く礼を述べ、廃車となる馬車の代わりに新車の馬車の納入を約束し、すぐに帰ろうとする卿を馬車の用意が出来るまでは屋敷に泊まってくれるようにと熱心に引き止めていた。

 俺も反省していた。後で知ったがあの一帯は山賊や悪い魔法使いたちの根城になっているだけでなく、犯罪者も多く潜伏する無法地帯だったのだ。

「迷惑をかけてごめんベルナルディ。ハンスエリのことで何か分かればと想ったんだ」

「テオを唆したのはわたしです」

 ブラシウスも俺に並んでベルナルディと師匠に謝罪した。

「アルフォンシーナ嬢まで危険な目に遭わせてしまいました。お詫び申し上げます」

「しかしその無法地帯を、独りで突破した子どもがいるのだ」

 屋敷に滞在することになったシェラ・マドレ卿が強い声で云った。

「わたしもこの眼で見たが、少年は彗星のように箒で現れ、そして悪い魔法使いを大勢向こうに回して恐れることなく独りで立ち向かっていた。あの少年は何者なのだ。あのような子どもは見たことがない。貴女ならばそれをご存じではないのかな、ヘタイラ・ルクレツィア」

 母屋敷の隣りの瀟洒な館。怪我をしたアロイスと、アロイスを見舞っている領主ベルナルディを除いた俺たちは全員でそこに集まっていた。寝椅子の上に半身を起こしたルクレツィアさんは、腕にハンスエリを抱いていた。

 やがてルクレツィアさんが云った。

「アロイスは、わたしの子」

 やはりそうなのだ。ルクレツィアさんは、息子アロイスに逢うために身重の身であんな危険な旅をしたのだ。

 シーナが師匠を横目で見て下を向いた。

 ハンスエリが泣き出した。赤子の泣き声が響く中、ルクレツィアさんは囁くような声でその名を告げた。その美しい顔には苦しみ抜いた果ての、ほそく削れた深い哀しみが刻まれていた。

「父親は」

 苦しい。

 助けて。

「アロイスの父親の名はアルバトロス・フォン・ザヴィエン」

 シーナが顔を上げた。師匠がわずかに顔をゆがめている。怒りで。

 俺とシーナとブラシウスは顔を見合わせた。

 アルバトロス・フォン・ザヴィエン。

 誰?



 苦しい。

 助けて。

 息ができない。マキシム、助けて。

 身が裂けそう。こんなに苦しいなんて。

 生きてるの、生まれた子はどうなったの。産声が聴こえない。

「遠くに棄ててしまいなさい、選帝侯」

 誰の声。

 逢いたい。生まれた赤子がどうなったのか教えて。誰かわたしに教えて。燭台の蝋燭の灯りが星のよう。あの日の舞踏会に戻りたい。

「ルクレツィア」

 赤子は無事なの。男の子、女の子。どちらなの。どうしてそんな顔をしているのマキシム。

「ルクレツィア。赤子は男児で、死産だった」

 嘘。

 嘘。

 嘘だわ。それは嘘だわ。

「遠くに棄ててしまいなさい、選帝侯」

 わたしはそれを聴いたわ。だから赤子は生きているのよ。

 生まれた子を棄てたのね。

 起き上がろうとしたわたしをマキシムが抱きとめる。放して。拾いに行かなくては。狼に喰べられてしまう前に。夜になる前に。どれほど心細い想いをしていることか。

「ルクレツィア。こうするしかない」

 放してマキシム。放して。棄てたのね、貴方がわたしの赤子を。貴方が。

 貴方が。

 お母さまは信じていたわ。あなたはきっと生きている。

 絶対に生きている。

 お母さまが行くのを待っている。青い空を見て。あれがあなたの飛ぶ世界。風に乗り、日輪の光を浴びて。

 冬と夏がいくつ巡ろうとも、忘れたことなど一度もない。

 その顔をよく見せて。

 あなたは魔法使い。

 わたしの産んだ魔法使い。

 偉大な魔法使い。 



[Ⅳ・了]

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