Ⅳ 後篇(上)
頭上に網が被さってきた瞬間、俺とブラシウスは箒を手放し、魔法杖を握っていた。
俺たちのいた場所は、地図上では確かに最も危険な中央山岳地帯からは少し外れていたのだが、悪い魔法使いたちも移動する。折り合い悪くその夜、悪い魔法使いたちは悪事を働こうとして空振りに終わり、遠征から根城に帰る途上だった。
飛んでいる俺たちを見かけた悪党魔法使いたちは、俺たちの後を尾けた。
「あの身なりを見ろよ。貴族の子だ」
「身代金をとれる」
相手が人間の盗賊ならば気づいただろうが、魔法使いたちは気配を消して、音もなく俺たちに忍び寄っていた。そして、
「捕まえたぞ」
箒で飛び立とうとした俺たち三人の真上から、動きを封じる魔法網を投げ降ろしたのだ。
俺とブラシウスが考えることは同じだった。
「シーナ、逃げろ」
アルフォンシーナが絡まっている綱を二人がかりの魔法の力でやっと断ち切ると、箒を掴んだ魔女は振り返りもせずに網の外に転がり出て、箒に飛び乗り、一瞬で暗闇の中に飛び去った。その間に俺とブラシウスは魔法網ごと悪い魔法使いに抑え込まれてしまった。
俺とブラシウスは目配せし合った。シーナさえ無事ならいい。シーナが救けを呼んで来てくれるだろう。
「独り逃げた」
「追え」
「いいのか。あれは魔女だぞ」
俺は網の下からわざと嗤ってやった。
「捕まえようとしたら呪われるぞ」
闇夜に浮かぶ魔法使いは二十人くらいだ。これなら俺とブラシウスの箒で逃げ切れる。
ブラシウスが交渉を持ちかけた。
「欲しいのは金だろう。魔女を連れ戻すというのなら、俺たちにも考えがあるぞ」
「へえ、云ってみな」
「侯爵家を敵に回すことになる」
「え、お前たち侯爵なのか」
侯爵家の者なんて見たこともないのだろう。悪い魔法使いたちは慌て始めた。ブラシウスは余裕をみせていた。
「俺たちを解放したら、今晩のことは黙っておいてやる」
「いやそれは信じられない」
「こちらはお前たちには用がない。だから忘れてやる」
あっという間にブラシウスは主導権を握っていた。普段は友だち付き合いをしているから分からないが、こういう時のブラシウスはちょっと強面になるんだな。
「俺たちがここに居ることは侯爵家も承知だ。だからもし行方不明になったりしたら、探索の手はお前たちを決して逃がさない」
「そんな。俺たちは金さえ貰えれば何もしない」
「幾ら欲しい」
「え、幾ら。いくらだろう。あるだけ欲しい」
「父は寵臣だ。身代金を要求するがいい。魔都の皇帝が出すだろう」
「皇帝ッ」
身をのけぞらせた魔法使いたちは寄り集まってひそひそと相談を始めた。この調子ならばすぐに解放される。
「本当になかったことにしてくれるんだな」
「約束する」
「じゃあ解放する。行っていい。その前にお前たちが本当に侯爵家の者なのか証を見せてくれ」
「ああ、いいよ」
魔法網から出たブラシウスは、彼らに宝石を少し与えた。そんなものを持ち歩いているところが侯爵家らしい。しかし後から考えたらどうもこれが悪かったようだ。
解放されたブラシウスと俺はすぐに箒で夜空に逃れた。箒の調子があまり良くない。魔法網に引っかかった時に、枝先が少し曲がってしまったのだ。飛ぶのに支障はないが縁起が悪い。
振り返って箒を調べていたブラシウスが仕方なさそうに云った。
「残念だが、遠征は中止だ。帰ろう」
「シーナは何処まで逃げたかな」
困ったことに、シーナと合流できるまではこの空域から離れられない。もし戻ってきたシーナとすれ違ってしまうと、引き返してきたシーナがまた捕まらないとも限らないからだ。
俺とブラシウスは宙を漂うままに、夜空に眼を凝らしていた。逃げるにせよ、救けを呼んでくるにせよ、シーナは来た道を辿り、またこちらに戻って来るはずだ。
梟の鳴き声に似せた音が不気味にこだましていた。俺は山岳地帯を振り返った。
最初のうち、それは山が動いているのかと想った。もしくは俺たちが地面に下がっているのか。
それが何か分かった俺は眼を疑った。大地の裾から黒い布を立ち上げるようにして、物凄い数の魔法使いが俺たちを目指して飛んで来るのだ。
「逃げろ」
俺とブラシウスは同時に叫び、箒の速度を上げた。根城に戻った盗賊たちは、盗賊頭に今夜のことを報告して、ブラシウスが与えた宝石を見せたのだ。
宝石を調べた盗賊団の頭は立ち上がった。
「本物の宝石だ。それは本物の侯爵家の子息だ。生かして帰せば、皇帝に俺たちのことを報告するに違いない。追いかけて殺せ」
盗賊頭は配下の魔法使いを呼べるだけ呼び集めた。悪党仲間たちが一斉に俺たちを追って来る。千騎近くはいるように想えた。
盗賊たちが俺たちの上に投げたあの魔法網には、特殊な夜光塗料でも塗られていたのだろう。じぐざぐに逃げても、雲霞のような大集団は正確に追いかけて来た。箒の調子が心配だが、ここはやはり高速移動した方が振り切れる。
同じ考えのブラシウスと頷き合って、箒を飛ばそうとした時だ。前方から見覚えのある空中馬車が走って来た。
箒に曳かれた馬車の窓から顔を出してシーナが俺たちを呼んでいる。
「テオ。ブラシウス。馬車に乗って」
「ブラシウス、シーナだ。あれはシェラ・マドレ卿の馬車だ」
「引き返す途中で卿に逢ったの。シェラ・マドレ卿はわたしたちのことを心配して、馬車でわたしたちの後を追ってくれていたのよ」
俺たちは馬車に飛び込んだ。馬の代わりに馬車に繋がれている沢山の箒は御者の掛け声を受けてすごい勢いで向きを変え、魔都のある方角に向けて猛然と星を蹴って走り出した。
帆船の船長のようにシェラ・マドレ卿は杖の杖頭を握って悠然と座っていた。ブラシウスは揺れる馬車の中で立ち上がり、後方の窓を確かめた。
「追ってきます、卿」
「追いつけはしない」
確かに、単騎の箒と比べてこちらは箒が束になっているのだ。馬力と同じで本気で飛ばせば馬車の方が速い。しかし盗賊たちは特別に改造した違法の箒を使っているようだった。空域警備隊がいる領域に届くまではこちらが危ない。
馬車が大きく揺れた。後輪に盗賊の放った魔法が当たったのだ。悪党たちは馬車から壊すと決めたようだった。
追ってくる箒の波。その中から一騎だけ飛び出して、物凄い速さでこの馬車を目指してぐんぐん飛んでくる魔法使いがいる。それを見て馬車の中の俺たちは魔法杖を取り出した。
「来るぞ」
その箒は盗賊たちの現れた山岳地帯のさらに後方から飛んで来た。そして追手の盗賊軍を追い越してしまうと、俺たちの乗っている馬車と盗賊たちの間まで眼を奪うような速さで真っ直ぐに突き抜けてきた。
流星となって飛んできた単騎はシェラ・マドレ卿の馬車を追い越し、そして向きを変えて、今度は前方から戻って来た。
箒に乗ったその魔法使いは馬車の窓から顔を出している俺たちを一瞥した。
「何をしに来たのですか」
それはアロイスだった。
「アロイス!」
「ここは、ぼくが防ぎます。皆さんは逃げて下さい」
「莫迦か」
すぐにブラシウスは馬車の扉を開けて、馬車の底面に留めてある箒の固定具を外した。俺も反対側からそうした。
「テオ。ブラシウス」
シーナが止めていたが、構わずに俺とブラシウスは箒を掴んで空中に躍り出た。あれほど大勢いる魔法使いをアロイスが独りで防ぎ切れるとは想えない。
一回転して箒に跨った途端に、眼の前が光った。悪い魔法使いが塊となって落ちていく。アロイスが魔法杖を揮って盗賊を吹き飛ばしたのだ。アロイスの魔法を浴びた盗賊たちが箒ごと横転して下界に広がる山々に墜ちていく。
俺は手の中で魔法杖を回して持ち直した。敵はまだまだいる。黒波のように続々と悪党魔法使いがやって来る。ブラシウスが俺に声をかけた。
「挟み撃ちにするぞテオ」
アロイスとは逆に『冠』ブラシウスは盗賊群の下側をすっ飛んで抜けていき、向こう側を取っていた。行動力抜群のブラシウスらしい判断だった。こちらと向こうから敵を挟んで敵勢力を半分に割くつもりなのだ。
空の上であらゆる方向から魔法の光が飛び交った。魔法対魔法が火花を散らす。防御と攻撃を組み合わせる魔法杖と魔法杖の戦いについて、俺は以前、「雪玉合戦に似てるよ」と人間の友だちに説明したことがあるのだが、こちらは殺傷力がある。
あ、ヤバい。
箒を砕かれた。悪い魔法使いが馬車に向けて放った魔法が運悪く、俺の箒の柄に当たってしまったのだ。箒が折れて、ぐらりと傾く。
馬車からシーナが跳び下りるのが見えた。シェラ・マドレ卿の制止を振り切って空中に身を躍らせたシーナは魔法を揮った。シーナの魔法は俺に接近していた盗賊を箒から弾き飛ばした。
乗り手を失った箒が跳ね上がる。
シーナはその箒の端を片手で掴んだ。箒を乗っ取った魔女は体勢を立てながら俺の許に飛んできた。ほんとうに女の人はやることが無茶苦茶だよ。
「乗って、テオ」
「シーナ後ろにさがって。俺が操る」
折れた箒を棄てて、シーナが空けた箒の前に俺は跳び乗った。シーナの両腕が俺の腰に回る。俺はシーナと空中を駈けた。やっぱり二人乗りはこうでなくちゃ。
「少年が危ないぞ」
シェラ・マドレ卿が馬車から叫んだ。
盗賊はアロイスから先に片付けることにしたようだ。蜂に襲われるようにしてアロイスは賊から集中攻撃を受けていた。魔法杖を揮い、片手で巧みに箒を走らせていたが、アロイスの片腕からは血が流れていた。
「テオの箒が折れた時にテオの方にアロイスの注意がそがれたの。その時にアロイスは魔法を浴びてしまっているわ。彼は怪我をしてる」
「アロイス、馬車に入れ」
悪党魔法使いたちは攻撃蜂のようにアロイスを追いかけていた。少年の粗末な箒では限度がある。俺も追い駈けて蜂の巣の外側から魔法を揮ったが敵の数が多すぎる。
「馬車に逃げ込め、アロイス」
アロイスを囲んでいた賊の一部がこちらにも向かってきた。
後ろでシーナが立ち上がった。俺の肩に手をかけ、箒の柄に足先を前後させて立ち上がり、シーナは魔法杖を振り下ろした。卵の割れるような音が鳴り響いた。出現した雷を浴びた賊が絶叫を上げてばらばらと地上に墜落していく。
雷の蒼い光と残響が空間にまだ残る。再び座って俺の腰に腕を回したシーナは、後方を振り返って悲鳴を上げた。
「テオ、ブラシウスが魔法杖を持っていないわ」
何処かで落としたか、落とされたのだ。ブラシウスは星間のあいだを飛び回り、飛行技術だけで闘っていた。
俺が何か云う前に、シェラ・マドレ卿の馬車がブラシウスを迎えに猛然と走っていた。後からブラシウスは「べつに、大丈夫だったぞ」と俺に云った。
「気狂い箒の動きを真似たんだ。楽勝だったぞ」
ブラシウスは箒の先で悪党を蹴り落としていたが、あれだけ大勢に囲まれて追われていたのだから、その自信のほどには何の根拠もない。ブラシウスは迎えに行ったシェラ・マドレ卿の馬車に避難した。
馬車の扉を開けて半身を乗り出したブラシウスが俺たちに叫んだ。
「アロイスが落ちる」
見れば、まさに頭上の空でアロイスが箒から落とされたところだった。集中砲火を受けた箒が少年の身体と分離する。箒が木端微塵になるのが月影に映った。
箒に三人は乗れない。でも掴まれば、運ぶことくらいは出来る。シーナが俺にしがみ付いた。今からやることがシーナには分かるのだ。ガリレオ滑降なら墜落する前にアロイスに追いつく。
羽根を失った少年が落下する。
箒を立てた俺は墜ちたアロイスを追って超高速で垂直降下した。その俺とは逆に真下から真上に飛んでくる豪速の箒があった。天の頂きを目指している。
衝突寸前、下降する箒と下から昇ってきた箒がすれ違った。煽りを喰らった俺の箒が外側に軌道を外す。謎の箒が上空へと突き抜けるのを滑降しながら俺は振り返って確認した。俺とシーナは叫んだ。
師匠だ。
高速で滑降していた俺は勢い余って山頂近くまで落ち、そこから箒の向きを慌てて戻した。
墜落中のアロイスを掬い上げた師匠は意識のない少年を小脇に抱え、星の海原を飛翔していた。師匠がアロイスを助けてくれたのだ。
「師匠」
「マキシム」
俺とシーナは箒の上で歓喜した。すぐにシーナが俺をせかした。
「テオ、追いついて。片手が塞がっているからマキシムは魔法が使えないわ」
ところが心配はいらなかった。空軍用語で云うところの高高度に近いところまで一旦上昇していたマキシムは流石、俺たちの師匠だった。師匠は片腕にアロイスを抱えたまま、もう片方の手も箒から放し、一帯めがけて魔法杖を揮ったのだ。
空間が震えるほどの衝撃波が四方に広がった。マキシムの放った鬼火は雲を裂き、悪い魔法使いたちを青白い焔の矢で貫き、次々と地上に叩き落とした。
師匠の起こした夜空の花火に俺とシーナは大歓びだった。片腕に少年を抱えたまま気流の中を自在に飛び回ってあんな魔法を放つなんて、すごいよ師匠。
師匠の箒が降下してきた。
「師匠」
「テオ、アルフォンシーナ。伯爵未亡人から話を聴いて、追い翔けてきた」
シェラ・マドレ卿が馬車の扉を開け放って呼ばわった。
「その少年を馬車へ、他の者たちも入れ」
馬車は俺たちを次々と迎え入れた。
「世話になった。シェラ・マドレ卿」
怪我をしたアロイスを馬車に預けた師匠は、箒に乗って馬車と並走しながら、卿に礼を云っていた。
馬車の中でアロイスは泣いていた。まだ少年なのだから無理もない。
「怪我が痛いのか、アロイス」
「痛み止めの薬を作るわ」
「勇敢だった。よく頑張ったぞ」
口々に俺たちは励ましたが、馬車の長椅子に横たえられたアロイスは怪我の痛みで泣いているのではなかった。空中から落ちた時に魔法杖を手から取り落としてしまったことを悔いていた。
そんなもの、とブラシウスが優しく慰めた。
「俺だって落としたよ。後からいくらでも手に入るし、収集している魔法杖の中から好きなものを君にあげるよ。箒も魔法杖も消耗品だ」
「あの杖は違う」
顔の上に腕をおいて涙を隠しながら、アロイスは喉を震わせた。
「あれはルクレツィアからもらった魔法杖です」
馬車の中に押し殺した少年の嗚咽が響いた。シェラ・マドレ卿が上着を脱いで、泣いている少年にかけてやった。
》後篇(下)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます