第6話 自宅警備員には母親の気持ちはわからない
時計を見ると、もう二十一時を過ぎているのに凛ちゃんは帰って来ない。
「お腹空いたよ。凛ちゃんの顔見たいし声聞きたいよ」
自宅警備員とは言え、灯だって引き籠りになる前は、料理に洗濯、掃除に裁縫に至るまて、それなりにこなせる女の子だったのだが、今は部屋から出る事すら難しいと言うか怖い。
誰も居ない時間か夜中なら、両親と顔を合わせる心配はないのだが、今は両親ともに家に居る状態であり、もしキッチンに食べ物を探しに行って両親と顔を合わせでもしたら、私はその場から動けなくなってしまう。
もう私の事を娘とも思っていない両親。凛が居るから、私にもお小遣いをくれるだけで、凛が居なかったら、私はとうの昔に部屋で孤独死していただろう。
両親の期待を裏切った私。
学校に行かなくなった私。
部屋から出なくなった私。
そんな私を冷ややかな瞳で、感情のこもらないと言うか、可哀想な女の子みたいな瞳で見つめる両親。
特に父親は酷い。引き籠りになった私の事を完全に娘として見ていない。あの瞳は完全に他人を見る目であり、他人を見下している瞳なのだから、まだ母親の方がマシだ。
可哀想な女の子と言う瞳で私を見るが、まだ私の事を考えてくれている気がする。母親に関して言えば、そんな瞳で見てはいないのだが、凛以外信じられなくなった灯には、悲しい事にそう見えていたのだ。
私にお小遣いをくれるのは、凛ちゃんが言ってくれたからなのは知っている。
「お姉ちゃんにお小遣いあげないなら、私も要らないから、あんた達がお姉ちゃんを見捨てると言うなら、私が援交でもしてお金稼いでお姉ちゃんを養ってやるから! 」
「ちょっと凛ちゃん、援交って何を言っているの? あなたまだ小学生なのよ! 」
「だから何! 世の中には、そう言う趣味の人がいるの知ってるし、お姉ちゃんの為なら構わないから、私本気だよ! 」
援交って、凛ちゃん何を言っているの? 偶々トイレに行こうと部屋を出た。トイレは二階にもあるので、両親と顔を合わせる必要はない。
トイレを終えて、部屋に戻ろうとしたらリビングから、凛ちゃんが両親と揉めている声が聞こえてきた。
「凛、お前本気で言っているのか? 意味をわかって言っているのか? 」
普段は何も言わないと言うか、妻に全てを任せて、仕事ばかりの仕事人間である父親が、珍しく口を開いた事にも驚きだったが、怒りを表に出している事にも、階段の隅で隠れて聞いていた灯は驚きを隠せなかった。
「わかっているし、馬鹿にしないでよね。身体を売るって事でしょ。その位わかるし、パパ、今更パパ面するの? いつもママに私達を任せて、家にも帰って来ないのに」
凛ちゃんだよね? いつもの可愛いらしい声の妹とは思えない程に、冷たくて恐ろしい。その恐怖から、灯はその場から動けない。
「お前、父親に向かって偉そうに」
「父親ですか、父親なら何でもっと真剣にお姉ちゃんの事を考えないのですか? どうして自分の思い通りにならなくなったら、見捨てるのですか? どうしてかお答えください」
凛の瞳に、貴方を私は絶対に許さないと言う強い意志に、灯をお姉ちゃんを見捨てた父親を許さないと言う強い意志に、父親は怯んで何も言えなくなってしまう。
たかだか小学生の女の子にと思うかもしれないが、それ程までに今の凛の気迫は凄いのだ。
「り、凛ちゃん。灯ちゃんにはママがお小遣いあげるから、だから身体を売るなんて言わないで、女の子なんだから、もし妊娠とかしたら」
「その心配ならないし、私まだ生理来てないし、でもママが約束守ってくれるなら、お姉ちゃんに毎月お小遣いあげるのと、あともう一つお姉ちゃんをこの家に置いてあげるなら、私が大人になるまででいいから」
あと十年もすれば、働いて稼げる。そうすれば、狭くてもアパートを借りて、お姉ちゃんと暮らせるのだから、それまではこの家に置いて貰う必要がある。
「約束するから、だからもう援交するなんて言わないで、二度とそんな事を考えないと約束して」
「お前、何勝手な事を」
「貴方は黙っていて! この家は私の父が結婚祝いに買ってくれたのですよ。貴方なんて、私と結婚しなかったら、ただの平凡な平社員だったのよ! それをわかっているのかしら? 」
灯と凛の両親は、お見合い結婚だ。母親の両親は、会社を幾つも経営している凄腕経営者である。そんな会社に入社したのが、二人の父親である。二人の母親とお見合いした事で、婿養子になった事で、今の地位が会社役員と言う地位があるのだ。
「私がパパに言えば、貴方はすぐにでもクビに出来るのを忘れているのかしら? 」
凛と灯の家が比較的裕福なのは、母親の両親が会社経営者であるから、何故比較的と言うかと言うと、凛の祖父母は、お金には厳しい人なので、幾ら娘であっても、自分達の食い扶持は自分達で稼ぎなさいと言うスタンスを崩さない。本来なら、かなり裕福な家庭なのだが、本人達が比較的と思っているので、敢えて比較的と言う表現に留めておく事にする。
ただし例外はある。それは孫である二人には、とても甘いのだ。
甘いのだが、凛は甘えていたが、灯は祖父母に甘えた事はない。灯は、祖父母は大好きだが祖父母が頑張って会社を経営して稼いだお金なんだからと、お金を貰う事はしないと言う。子供らしくない子供だった。
今の地位を失いたくない父親は好きにしろ! と言って、それ以降口を挟む事はしなかった。
その後は、凛と母親で話し合って灯のお小遣いの事も、この家に置いておく事も、そしてこれからは凛が灯の世話をする事を決めた様だった。
お小遣いも貰えるし、何とかこの家に居れる事に安心した灯は、部屋に戻って行ったので、この後の二人の会話は知らない。
「ママは本当にいいの? お姉ちゃんとお話ししたくないの? 」
「したいわよ。お腹を痛めて産んだ可愛い娘なんですから」
今までみたいにお話ししたい。でも今はそれが叶わないと無理だと、一葉はわかっている。桜庭一葉は、本来は優しい女性だ。そんな彼女が灯に厳しく当たったのは、会社を両親が経営する会社を継いで欲しかったから、全ては私の力なのに自分の力で役員になったと勘違いしている無能な亭主なんかより、遥かに灯の方が期待出来ると、つい力が入ってしまった。
「凛ちゃんが、私達に怒ったでしょ? どうしてお姉ちゃんにその言葉を言わなかったの? って泣きながら」
「う、うん」
「それで、初めて気付いたのよ。ママが間違っていたって、自分の考えが正しいと、会社を継がせる事が灯の幸せと勘違いしていたって」
もっと灯と話をすれば良かった。もっと灯の夢を聞けば良かった。もっともっと灯に子供らしく生活させれば良かったと思っても、もう遅い。
「ママ、後悔してるの? なら今からでもお姉ちゃんと沢山話して、そうしたらお姉ちゃん、もしかしたら部屋から出て来てくれるかもしれないし」
「今は無理よ。灯ちゃんは、ママを怖がってるから、だから情け無いけど母親失格だけど、今は凛ちゃんに任せるしかないの」
「そ、そんな事ないと思うよ。きっとお姉ちゃんだって、ママとお話しした……」「ないわよ」
食い気味に続きを遮られて、凛は何も言えなくなってしまった。遮られたからじゃない。一葉の悲しそうな顔を見て、これ以上ママを悲しませたくないと、お姉ちゃんと仲良くしてねとは、今までと変わらずにお話ししてねとは言えなかった。
「ごめんね凛ちゃん。何年掛かるかわからないけど、きっと灯ちゃんは、またママとお話ししてくれると思っているから」
それまでは、灯ちゃんをお願いねと、幾らでも協力するからと、凛を抱きしめる一葉の身体が震えている事に凛は気付いていた。
(ママ泣いてるの? 私がお姉ちゃんを元に戻すから、だからもう泣かないでママ)
「凛ちゃんごめんね。こんな弱いママで、灯ちゃん本当にごめんなさい」
一葉の本当の気持ちに凛は気付いて、自分がお姉ちゃんを立ち直らせると、心に決めた瞬間だった。
お小遣いはくれるから、これで一安心だと灯は早速新しいエロゲーを検索する。
自分が女の子が好きな事には、ずっと前から気付いていた。
だけど両親の期待に応えなくてはいけないと、自分の気持ちなんて完全に押し殺していたから、引き籠りになってから、今まで抑えていたものが爆発してしまったのだ。
「この前の百合ゲーはイマイチだったし、もうちょっとエッチなシーンあってもいいのに」
女の子が大好きで、女の子同士のエッチなシーンが大好物なのも、自分で理解している。それに今はもうそれを隠す必要もないのだ。
ネットで検索しながら、面白そうなゲームをチェックしていく。
「これ女の子可愛い! こっちはかなりエロい! あぁぁ最高なんですけど! 」
一人恍惚な笑みで、モニターを観ていたら後ろに気配が、も、ももももももしかしてゆ、幽霊ですか? と灯は恐る恐る振り向く。
そこに居たのは幽霊なんかじゃなくて、顔を真っ赤にしている凛だった。
「お、おおお姉ちゃん、これって、そのえ、エッチなゲームなの? 」
「り、凛ちゃん、これは、その、あのね」
まだ小学生の妹に、はいこれはエッチな百合ゲームですとは言えないので、何て言って誤魔化すか考えていると「私も来年から中学生だから大丈夫だよ」と、手で目を覆いながらも、しっかりと画面を見つめながら、必死に大丈夫だよと健気に答える妹に、灯は何も言えない。
「凛ちゃん、何か用事かな? 」
「お姉ちゃん、もう二年も引き籠って、そろそろお部屋から出て、私とお出掛けしようよ」
「ごめんね。お姉ちゃん、お外怖いから」
悲しそうな顔をする凛には申し訳ないが、お小遣いも確保出来たし、そこには感謝はしている。凛が言ってくれなかったら、二年も引き籠りしている娘に、これ以上お小遣いをくれる様な激甘な馬鹿親はいないだろう。
「凛ちゃん、本当にごめんね。お姉ちゃんの為にお小遣いの事言ってくれたのに」
「聞いてたの? 」
「偶々だよ。トイレに行って、それで声が聞こえてきて」
「ならママとお話し出来るよね? 」
凛は、灯が自分達の話を聞いていたのなら、ママの気持ちに気付いてくれたと、あの話を聞いていたのだからと、淡い期待をしたが、そんな淡い期待はあっさりと打ち砕かれた。
「ごめん無理。私は凛ちゃんと話せればいいし、凛ちゃんが居ればいいから」
今まで穏やかで、少し怯えてる感じの表情とは違い、冷たい表情に軽く怒りと恐怖が混じっている事に気付いて、凛は少したじろぎながら、後退りしてしまった。
「凛ちゃん、本当にごめんね。お姉ちゃん、ゲームしたいから、またお話ししてね」
これ以上は無理だと、凛はエッチなゲームは程々にしてねと言うと、寂しそうに部屋から出て行った。
凛の寂しそうな後ろ姿を見て、本当にごめんねと私はママが怖いのと、だから今は本当に無理なのと心で謝りながら、凛ちゃん大好きだよと呟いていた。
あれから四年が過ぎたが、灯は相変わらず母親とは一言も話せていない。
一葉は、扉越しに何度か声を掛けた事もあったが、まるで反応がないので、灯が話したくなるまでは待つと決めて、それ以降は扉越しの会話を止めた。
凛もそれを一葉から聞いていたので、何も言わないが、偶に灯が泣いていると、ママに怒られたの? と言う事にしている。
これは、一葉からの提案だった。今は悪者でいいのだと、それだけの事をしてしまったのだからと、一葉なりの贖罪なのだと凛は、わかったと一葉の贖罪に協力している。
あれから四年経つのねと、凛に灯を任せる様になって、この四年間何が出来ると必死に考えたけれど、良い方法なんて思いつかない。
主人は、あれ以来何も言わない。下手に何か言えば今の地位を失うと、それを恐れて関わらない様にして、外に女を作っているのは知っているが、もう愛情なんてないから、いっそ愛人の所にでも行って帰って来ない方が、余程気が楽だ。
鏡を見ると、いつのまにか皺が増えた気がする。凛ちゃんは、ママは若いよねと、三十位にしか見えないと言ってくれるのが嬉しいけれど、出来るなら灯ちゃんにも言って欲しい。
「灯ちゃん、もう一度声を聞かせてよ」
本当にごめんなさいと泣いていると、もうこれ以上自分を責めないでと、テスト勉強からいつの間にか帰って来た凛が、優しく抱きしめてくれていた。
「凛……ちゃん。ママは、ママは灯ちゃんとお話ししたい」
「うん。もう少し待っててね。私が必ずお姉ちゃんを立ち直らせるから」
「本当にごめんね。全て任せて」
「大丈夫だから、もう泣かないでママ」
凛ちゃんありがとう。凛ちゃんごめんなさいと泣き崩れる一葉を優しく抱きしめながら、お姉ちゃん、早くママの気持ちに気付いてよと、凛は天井を上でゲームしてるだろう灯が居る部屋を眺めていた。
下で母親が自分の事で泣き崩れているなんて、一ミリも思っていない灯は、凛ちゃん今日も遅いなと、今日は一緒にお風呂に入りたいなと、凛ちゃんの裸綺麗だから、早く見たいななんて顔を考えて、えへえへとだらしない顔をしながら凛を待っていた。
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