第4話 ブリュンヒルデ
私は、塩売買・譲渡禁止令への抗議に来たストールション伯爵の姿勢の良い後姿を見送った。
ストールション伯爵カーリン・ロッタ・ファルクマン。
私は初めて会ったときのことを忘れない。
王太子オリヴァルとの結婚のために、私はサットン王国から海路北上して、このエークルンド王国にやってきた。
エークルンド王国は、海の民と言われるが、サットン王国は、海の民ではない。陸の民だ。
私は初めて乗った船で、ずっと船酔いして気分が悪かった。揺れる桟橋に、足を取られかけると、太陽にきらめく金髪に、海のように青い瞳、日焼けした肌に、真っ赤な唇の美少年が手を差し出してくれた。
(この人がオリヴァル?)
私はつるんとした頬の少年に胸の鼓動が聞こえないようにと願いながらその手を取った。
だが、桟橋から降りると、ほっそりとした美少年は名乗った。
「ようこそエークルンド王国へ。私は王太子殿下の命令により、お迎えに上がりました。ストールション伯爵カーリン・ファルクマンと申します。しばらく、お世話をいたします」
私はひと目でこのストールション伯爵に惚れ込んでしまった。
その声は、緊張してうわずっているのか、少し高いと思った。頬はつるんとしていて、体つきもちょっと華奢だと思った。
サットン王国では、「カーリン」という名前は、「カール」の女性形だ。
そこにヒントがあった。
気づくべきだったのだ。
十六歳。
私はあまりにも若すぎ、男も女もよく知らなかった。
太子妃といっても、私は実質的に人質だ。
エークルンド王国では、女性が爵位を持つことはあっても、女性が即位することはない。
それゆえに、私は次の王太子になるべき男児を産んで、その子を即位させるのが、サットン王国を愛する者としての役割だった。
子どもを産めば、形式的な妻の役割を果たす限りは、お役御免。
そういうものだと思って、エークルンドにやってきた。
その後……その後ならば、別の男を好きになっても良いじゃない?
そういうものだから。
ストールション伯爵だって、知ってるでしょう。
私はうっとりと、ストールション伯爵を見上げていた。
王宮に到着しても、私は夢見心地だった。
王宮でようやく、王太子オリヴァルに会った。
がっしりした体格で、穏やかそうな顔つきの王太子は、感じの悪い人ではない。伯爵と比べると、少し劣るけれど。
私の歓迎の舞踏会があり、私は王太子と踊り、そして、伯爵と踊った。
伯爵の方が、軽やかなステップを刻み、私の手をそっと取る。
翌日は、私のための模擬決闘だ。
どうやら、王太子の士官学校時代の同級生たちによる、余興だった。勝ち抜き戦で、負けるまで戦い続ける。
みな、誰か女に何かもらってそれを身につけるのが恒例だ。ある女はガーター。ある女は、スカートの裾。
私は袖を切って王太子に渡した。
決闘とはいっても、馬に乗り、槍を使うわけではない。ただの、剣と剣の戦いだ。
はじめに出てきたのは、ストールション伯爵だ。何を身につけているのか、良くわからない。
突き、払い、押し切る。
木刀なのに、本人たちは至って真剣に行うのだが、ストールション伯爵はあまりにも軽やかに身を翻して、相手の後ろを易々と取って、勝っていく。一人につき、三手もかからない。
そして、とうとう、最後の一人だ。二十人目は、王太子だった。
さすがに、二十人を相手にするのは、疲れたのか、少し肩が上下していた。
意外だったが、王太子は伯爵と十手を交わした。
伯爵は手加減したに違いない。
ただ王太子の方が腕力はあるらしく、伯爵はだんだんと腕が痺れてきたのか、防戦一方になる。
そして、最後は避けきれずに、肩を打たれた。
「勝者、オリヴァル!」
そう言われて、私は立ち上がって、王太子に口付けをした。
だが、私は袖を破って顕になった肩の、滑らかな白さを、伯爵に見せたかったが、伯爵は見向きもしない。その代わりに、日焼けした笑顔を王太子にむけていた。
王太子は伯爵の手を取り、天に突き上げた。
「我が国最高の騎士、我が親友、カーリン・ロッタ・ファルクマンにも!」
観客は、伯爵に割れんばかりの拍手を送った。ぽかんとしている私を除いて。
(ロッタ?ロッタ?)
伯爵と王太子の視線に、何かがあることに私はようやく気づいた。
カーリンは女の名前だ。ロッタも女の名前だ。
十八歳の王太子には髭がある。
同級生なら、伯爵も十八前後だろうに、頬はつるんとしている。
声は……男にしては高いが、女にしては、低い。
模擬決闘に、女の持ち物を持たない。
(女!?)
女だから、模擬決闘に女の持ち物は持たないのだ。
失恋というものを、私は知った。
結婚に至る前に、私は産まれたときに受けた洗礼を否定しなければならなかった。出生児に命名された宗教的な名前も、エークルンド王太子妃には相応しくないと、神殿に言われたのだ。
我が国にもかつてあった最高神神殿で、私は聖女と呼ばれる中年女のクララをはじめとした、巫女たちの前でサットンの衣を一枚一枚脱ぎ捨て、名前を捨て、新たな名前を選び、また、エークルンドの花嫁衣装を一枚一枚着ていく儀式を行わねばならなかった。
屈辱としか言いようがない。
しかし、サットン王国はそれは屈辱だと言うだけの力がない。
私は何枚か提示された名前を一つずつ見て、一番最後のものを選んだ。
「ブリュンヒルデ!」
意味は、女戦士だ。
巫女たちは全裸の私に拝礼した。
「ブリュンヒルデさまにご挨拶いたします!」
聖女クララの前で私は一枚一枚花嫁衣装を着せられて行く。全て着終わったところで、聖女クララが私の手を取り、言った。
「サットンに産まれた、エークルンドの娘、ブリュンヒルデよ。長き幸せを」
そして、巫女たちのいる最高神神殿から王宮へ、馬車で行く。
最後に手を取ってくれたのは、やはり、男装したカーリン・ロッタだ。
カーリン・ロッタの手から、オリヴァルの手に私は渡されたのであった。
私の頭越しに、二人は視線を交わしたのだ。
なんたる、屈辱。
私は決して忘れない。
嘘つきファルクマンの伝説 垂水わらび @tarumiwarabi
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