第2話
「石坂の家には父と母、私がいます」
という。石坂美知はじっと前を見たままである。自分がなぜ初めて会った女に家の様子をしゃべろうとしているか、美知には分からない。もしその理由をあげるなら、自分が拉致されようとするのを救ってくれた恩人だからなのか・・・そうとしか考えられなかった。
「家には、下働きの大久保武さん、塩野乙美さんがいて、古株の前谷圭三さんもいます。この方は私が生まれる前からいて、今確か・・・七十二歳だと聞いています。父の主税は、今は仕事をしていませんが、元役人で、ええと・・・確か、総務省から身を引いています。祖父は九十歳を超えています。はい、まだまだ元気です。ふふっ、私にはそう見えます。何でも新撰組の方とも知り合いだったそうです。母は気性の強い人で、私もその性分を大なり小なり受け継いでいます」
美知の説明は簡潔だった。
「こちらでお待ち下さい。黄金の兎文鎮をお持ちします」
美知は座敷の奥にある部屋から、美知はガラスケースに入った兎文鎮を持って来た。奥行が十センチ。縦七センチ、横十五センチの小さなものであった。
「これです。小菊さん」
美知は座敷机の上に黄金の兎文鎮を置いた。確かに、黄金・・・純金のようだった。六月の陽光は座敷の奥まで入り込んで来ていなかったが、それでも黄金は美しい輝きを呈していた。
「素晴らしいですね。武田信玄も人の子だったんでしょうか・・・どうしてこんなものを作ろうとしたのでしょうね。子供の頃使っていた真鍮の兎文鎮は知っていたのですが・・・これを見て、私はますます武田信玄が好きになりました」
小菊は兎文鎮を両手で持ち、庭の方に近付いて行った。廊下の辺りまで陽光は入り込んでいた。すると、黄金の兎文鎮の輝きは一層増して来た。
「この文鎮があるのをごく限られている人でしたね」
美知は、
「はい、一般の人は知らないはずです」
小菊は奇妙な笑顔を見せた。美知にもそれが分かった。しかし、何を意味するのか、美知には分からない。
「もう一つ、届いた脅迫状を見せて下さい。確か・・・」
美知は書棚の中から一枚の紙片を取り出し、小菊に渡した。
「なるほど・・・九鬼龍作か?」
この時、パトカーのサイレンが聞こえて来た。
「警察が来たようですね。意外と早かったな・・・」
新藤小菊は立ち上がり、何処かへ行こうとした。それに気付いた美知は、
「何方へ?」
と、訊いた。
「ちょっと調べたいことがありますので、私がここにいるのは警察には秘密にしておいて下さい。小原正治警視正も来ると思います。私の良く知っている人です。私は何処へも行きません。この事件に興味を持っていますから、解決して見せます。そうだ、さっき見せてもらった九鬼龍作の脅迫状を小原警視正にね間違いなく見せて下さい。警察が到着する前に、この近辺を見回って来ます」
と、言うと、小菊は何処かへ行ってしまった。
小菊という女の人が何処かに行った・・・!石坂美知はちょっと不安な眼になった。彼女が誘拐され掛かったのを見事に助けてくれたのである。だけど、何処の誰だか知らない。それだけで、美知の信頼を得たのである。小菊という女性はけっして大柄ではなく程よい体の女性で、髪は黒く肩までストレート髪が伸びていて、可愛いというより美しい人だった。なぜか、父主税も、多分初めて会うのだろうけど、黄金の兎文鎮を見せてもいい、と許諾した。そんなことは余りないのである。石坂主税は気性は気難しく、娘の美知もこの歳になると苛立つことがあった。そんな主税が、黄金の兎文鎮を見せていいと応諾したのである。小菊への印象が余りに良かったのかも知れない。
美知も小菊と一緒に行きたかったのだが、
「私一人でいいです」
といって断られた。
美知はちょっとがっかりしたが、仕方がないので、
「はい」
その内、警察がやって来たので、父主税は玄関に向かったので、美知は座敷に一人残されてしまった。
「警察か・・・仕方がないな」
と、力は呟いていた。
警察の方は、どうやら父の石坂主税が相手するようだった。こっちに誰かがやって来る。廊下を擦る音がした。
石坂主税と小原警視正である。
「おお、美知、まだそこにいたか。警視正殿、娘の美知です。小原警視正、これが兎文鎮です」
といい、主税は手で示した。
小原警視正は顔を近づけて、見入ったのだが、彼は眩しそうな眼をした。
「ところで、九鬼龍作という大泥棒から、この黄金の兎文鎮を守ってくれるのでしょうな?」
石坂主税は念を押した。庭には早くも警察官が警備に付いていた。
「分かっています。奴が、どんな手で押し込んで来ようと、必ずこの文鎮を守って見せます」
「ところで、九鬼龍作というのは何者ですか?」
石坂主税は訊いた、気になっていたのである。
「けしからん大泥棒です。何者かは分かりませんが・・・」
「何ですって・・・」
「顔も容貌も定かではありません。ええ、本当です。今だかって、あいつ顔を見たものはいないのです」
この時、小原は首を少しひねった。ん中を思い出しているようだったが、まあ、いいか・・・と言う顔をした。小原警視正は何かをしゃべろうとしたが、この邸宅の主人に手を上げたため、言葉を切った。
小原警視正が玄関で石坂主税とやり取りしている時、小菊は一人で庭をふら付いていた。もちろん座敷にいる人には顔を向けなかった。古い屋敷で、庭のあちこちに新緑が眼に眩しい樹木や躑躅などの草花が植えてあった。今の時期、躑躅は白い花が満開で、白の輝きだが華やかさがあった。
新藤小菊は人がいるのに気付いた。
「こんにちは・・・」
小菊は近付いて行った。一人は二十半ばの女だった。もう一人は四十前か・・・小菊にはそう見えたのだが・・・なぜか気になった。男は竹のさらいを持っていて、庭に落ちている葉っぱなどを集めていた。女は見ているだけだった。
二人同時に、小菊を見て、頭を下げた。
「あなたたちはこの家で働いているのですか?」
「はい」
大久保武は若い女を凝視した。二人して、小菊を睨んだ。新藤小菊は笑みを浮かべている。
美知から二人の人が家で働いている、と小菊は聞いていた。名前は女が塩野乙美といい、男の方は大久保武だった。
乙美は大久保がかき集めたごみを集配のごみ袋にかき集めていた。その乙美に小菊は、
「若いのにえらいわね。普通なら何処かの会社に就職し、のんびりと働きたい所なのに・・・ねえ」
と、小菊は声を掛けた。乙美は小菊を見上げた。
「はい」
といったが、首を振っているように見えた。乙美の眼は落ち着かないようだった。反対に小菊の眼は乙美を凝視したままだった。乙美はそれに気付き、すぐに眼を逸らした。
「大久保さん、私・・・洗濯物を取り入れて来ます」
乙美はごみで一杯になったゴミ袋を置きっ放しにして、行ってしまった。
「私はあの子を怒らしたようですね」
「いえ、大丈夫です。すいません」
大久保は謝った。
「あなたは、この仕事は長いのですか?」
「私ですか・・・まあ、長いと言えば、長いかも知れません」
大久保武は小菊の白のスニーカーから視線を徐々に上げて行った。肩まで伸びた髪が彼女の顔を隠したりしていた。時々見せる白い歯は魅力的に輝いていた。女の子というより、彼女は体つきからして女だった。彼にはそう見え、いい女だ、と感じているようだ。
「美知お嬢さんのお友達ですか?」
興味がわいたのかも知れない、
「カルチャーセンターで知り合い、友だちになりました。とても才能のある方ですね」
この男、言葉つきは優しいし、自分がこの邸宅の下働きと自認もしている。どう振舞えばいいのか、ちゃんとわきまえているのだが、眼か冷たく見える。
(私の気のせいかしら・・・)
小菊は首を少しひねった。
「そうだ・・・」
一人、古くからの下働きの老人がいる、と小菊は美知から聞いていた。長田清秀といい、もう七十二歳、と小菊は聞いていた。彼女はこの老人にぜひとも会って置きたかった。
「ところで、今ご老人は見えます?」
大久保は首を傾げた。
「・・・」
「失礼・・・長田清秀というご老人です。この家には・・・長いと聞いていますが・・・」
「ああ・・・ええ、今部屋に見えると思いますよ。お呼びしましょうか?」
「いえ、いいんです。こちらから訪ねて見ようと思います」
新藤小菊は大久保の前から離れた。大久保武にしろ塩野乙美にしろ、小菊は落ち着きのない物腰に見えた。だが、この先どういう展開になるのか、今の所小菊にも分からなかった。ただ、この家の住人は三人なのに対して使用人も三人、ちょっと多すぎる、と彼女は思った。だからといって、何ら問題はないのである。
小菊はもう一人、知って置きたい人間がいた。おそらく、この点も警察も承知しているはずである。
小菊は老人の部屋の前に立っていた。どうやら、まだ警察は会いに来ていないようだった。
(あの人と会わないように、手短に話して置くことにするか)
あの人とはもちろん小原警視正のことである。時期が来れば、顔を会わさなくてはならない。
小菊は声を掛け、ドアノブを回した。
「失礼します。少しよろしいでしょうか?」
老人石坂玉四郎は椅子に座り、窓の外を見ていた。小菊が入って来たのに気付くと、椅子を回し、右手を動かそうとした。
「いえ、いいです、そのままで。大した用事ではありませんから・・・」
新藤小菊はゆっくりと老人に近付いて行った。
「警察が来ているようですね」
「はい、この家の黄金の兎文鎮のことで・・・今夜盗みに入るそうです」
「えっ、誰がですか?」
「何でも・・・九鬼という泥棒だそうです」
「そうですか・・・」
この間、小菊は老人から眼を離さなかった。
「この屋敷は相当古いですね?」
「ええ、お嬢さんの古いですよ。古いものに興味をお持ちですか?」
「少しは・・・ここは、武家屋敷だったんですか?」
「先祖は武田信玄の小人頭の九人の一人・・・道筋奉行を徳川家康から命じられました。それ以来、ここの住人です」
小菊は玉四郎の話を聞いていたが、時々薄暗い部屋を見回していた。老人はふっと笑い、
「昔は・・・それが誇りでした。だが、時が経つにつれて、人の考えが変わって来ると、そういう意識は消滅してしまいます。お嬢さん・・・私はそれでいいと思っています。この屋敷は謎に満ちています。私でさえ、何があるのか分かっていません。それでもいい。その謎にまま消滅してしまうのもまたいいとおもうのです」
小菊は頷いていた。
「だが、今は違います・・・」
玉四郎は苦渋に満ちた表情し、あえてその表情を崩さなかった。
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