第14話 天下人の抜け道へ
(一)安部川渡しと九相図
翌朝になり、三人は安倍川を渡る。ここ数日晴天が続いたおかげで、川の水量はそれほど多くない。
「それがしは荷物をみな頭のうえにくくって、歩いて渡ろうかと思う。」
宇七がそう言うと、新之丞が申し訳なさそうに言う。
「わたくしは…できれば肩車を使いたく…」
「遠慮なく、使ってくだされ。」
ところが、川渡し人足の男が新之丞の肩車料金を吹っかけてきた。
「お侍さん、あんたが俺の頭にしがみつくから、とても一人じゃ支えられない。添い歩きにもう一人分払ってくれ。」
「川札を2人前、買えと言うのですか?」
「じゃなきゃ、むりだ。」
たしかに新之丞は、かちこちに震えあがって人足にしがみつく。ふらふらすると言われれば断ることもできない。
「それがしが添い歩きするが?」
宇七が申し出るが、人足は素人ではだめだ、俺の相棒を使えと繰り返す。
「…いっそ、宇七どのが背負われては?わたくしが添い歩きいたします。」
福助が申し出る。
「それがいいか。」
「えぇっ。宇七どの、そんな申し訳ないことはできません。」
「いやいや、あの人足より私と福助どののほうが、安いし頼りになりましょう。」
宇七と福助はさっさと裸になると荷物をまとめた。
「新之丞どのも、着物は脱いでしまったほうが良い。肩車から水に落ちたらひどいことになる。」
「…はい。」
新之丞が観念して裸になり、宇七に担がれる。
「新之丞どのは、どうしてそんなに水を怖がられるのだろうか?信州に海はないとしても、川遊びもしたことがないのですか?」
「…ありません。水というよりも、水の下にある見えざるものが怖いのです。」
「河童など?」
「なんでしょうか。私が知っている世界とは違うなにかがあるように思えて…」
海や川の水が奔放に流れ、その下に何があるのかを考えるとぞぉっとするのは、できるだけ心を動かさないように縛り付けているたががはずれてしまいそうな、そんな気がするからかもしれない…思えば、寺で育つということは自分の欲望を極限まで押さえつけて生きることだ。
新之丞が少年から若者になる頃に何度も見せられたものに、九相図があった。
1日目に歴史上の選り抜きの美女を描いた美しい絵を見せられる。
2日目にその美女が死の床にある絵を見せられ、
その後、美しい女が朽ち果てていく腐乱死体の絵を9日間にわたり見なくてはならぬ仏教の修行だ。
意地の悪い修行僧は、何も言わずに最初の美女の絵を見せる。そして、何も知らずうきうきとした若い小坊主たちに、翌日から次々と吐き気を催すような遺骸の絵を見るように命じるのだ。多感な年ごろに、女に会ったこともない若者が、最初から女に萎えるようにする教育だ…
そんな育ち方をすると、自分の心を解き放つことができない。宇七と触れ合うと少しどきりとするのも、仲間と美しい旅路を行くのに心が躍るのも、敬愛する殿様に声をかけてもらって晴れがましい気持ちも、すべていったんなかったことにするよう、身についてしまっているのだ…宇七のように、好きな女に熱を上げたり、気分がいいと新之丞にちょっかいを出して面白がったりすることは、まずまずできない。
(二)田沼街道へ
「それにしても、悪目立ちしている気がします…」
新之丞が恥ずかしそうに下を向く。人足渡しを使う旅人は、人足の背に服を着たままおぶわれる。しかし新之丞は素っ裸で褌一丁、背負っている宇七も褌姿だが、同じ侍であることは髷からすぐに見て取れる。
「…泳げない侍が、仲間に背負ってもらってるよ!」
あからさまに指さして面白がる旅人もいる…本当のことなので怒る理由もないが…
「旅の恥はかき捨てと言いますから、気になさらないように。」
福助が三人分の荷を頭の上に抱えてじゃぶじゃぶと横を渡る。
「それにしても、なにゆえこのように不便なのだろう?安部川に船を出したからといって、いまどき、どこの外様が江戸に攻め入るというのか?」
「それは表向きの理由、この川渡しで食べている人足がたくさんいて、ご公儀もいまさら橋を架けたりできないのです。」
福助が宇七の文句に答える。
「なるほど…旅人の数より、はるかに多い川渡しがいるな。この連中が食いあげてしまうというわけか…」
「さようですから、さきほども2人雇えとふっかけたのでしょう。」
「そんな理由で…ほかに仕事を作ってやればよいのに。大井川の渡しはさらに大変と聞くが、これではまるで幕府が不便を作っているようなものだ。」
東海道の大河に橋がないことで、どれほどの不便が生じて、どれほどの時間と労力が川渡しに使われているのか…溺れて亡くなる旅人もいなくはないと聞く。これを良しとしているのは、頭でっかちで既得権益に盾突かれるのが面倒な役人の怠慢だ。
「さて、新之丞どの、降ろしますよ。」
「はい。」
「よほど水が怖いのですな、背負っている間もどくどくと早鐘のような脈でした。」
「…」
胸がどきどきとしたのは、水が怖かっただけではない…と新之丞は思ったが、顔を赤らめて礼を言った。
安倍川を渡り、休む間もなく藤枝宿まで歩く。ほんの一刻ほどだ。藤枝宿の勝草橋に道標があった。
みぎ しまだしゅく
ひだり さがらみなと
一行は迷わず左の道を選んだ。しばらく歩くと、宇七は街道が東海道本道よりも整えられていることに気付いた。
「道幅は一間ほどもあり、川石を敷いてあるので、ぬかるみも少ない。これは大八車が通りやすいですな。」
「街道脇には並木が植えられ木陰が心地よく、周囲に見える田畑や家もきちんと手入れされておりますね。人々が豊かで良い気が感じられます。」
新之丞が相槌を打つ。陸に上がればいつもの元気だ。しかし、また大井川が見えてくると元気を失った。
「大井川は渡し舟が使えますよね…福助どの?」
「そのはずでございます。田沼意次公は東海道一の難所といわれる大井川に、天下人の一存で渡し舟を用意なさいました…相良湊を使う商人と、相良藩の領民だけしか使えませんが、これによってどれほど荷を運びやすくなったかは、誰もが認めるところです。」
福助が言ったとおり、一行はしっかりしたしつらえの渡し舟に乗り、大井川を渡る。新之丞もいくぶん落ち着いている。
「なぜ他の川でもこういったきちんとした船を用意しないのか、不思議です。人足渡しも、穴の開きそうなボロ船も、もうこりごりです。」
(三)田沼の城下町
渡し舟のおかげで一行は大井川をなんなく渡り終え、風光明媚な牧の原を抜け、やがて相良の城下町に入った。
田沼意次の城である相良城はまだ普請中で、人々があちらこちらでせっせと土方をしている。城の石垣や水路はじゅうぶんに使い勝手を考えられて指図されているようだ。これらを見ると、相良城はずいぶんと立派な城になりそうだ。
その相良城のすぐ近くに広がる相良湊はまさに壮観だった。
「相良湊は天然の良港だとは聞いていたが、これほどとはー」
船を見慣れた伊豆育ちの宇七も目を見張った。巨大な帆船がたくさん並ぶ船着き場は、東海一の港といっても過言ではなさそうだ。
「源内どのが、田沼さまは船乗り気質の紀伊衆だとおっしゃっていたな…」
「えぇ、ここ相良湊は江戸と上方を繋ぐ、欠かせない中継地です。」
「にしても、どの領民も表情が明るい。」
ひとりごとを言う宇七に、福助が微笑む。
「相良は年貢が軽く、ゆえに領民が豊かだと聞きます。」
「えっ…これほどの普請をしていても、年貢が軽いのですか?」
「城下町造成や港普請の恩恵がこれほどあるのに、ずっと税が上がらないそうです。」
「ほう…」
「他山の石というところもございましょう。郡上一揆をご存知ですか?」
新之丞が話に入ってきた。
「あぁ、幕府の有力者が処断されて、大騒ぎになった一揆ですな。」
「ここ相良藩の前藩主は、郡上一揆の騒動に巻き添えをくって改易となりました。郡上一揆は税を上げようとして起きた一揆ですから、田沼さまもよほど気を付けていらっしゃるのでしょう。以前のように民から搾り取ろうとしても、そうはいかないご時世です。」
「しかし…税を取らず、どうやって普請などを賄っているのだろうか?」
「商人や大名から、ずいぶんと付け届けがあるようです…」
田沼は賄賂が好きだ、と言われるのはこのためか。しかし賄賂を取らないが領民を搾り取る藩主と、どちらが良いだろう。商売人と付き合いのある福助が、聞いた話だが、と前置きをして話し出した。
「田沼さまは、町人や農民から普請のために土地を召し上げるとき、じゅうぶんな立ち退き料をお支払いになったそうです。城下や港湾を普請をする人夫たちも、ただ働きはさせず、それなりの金を払うとか。思わぬ銭を手にした民は、喜んでそれを使って、どんどん買い物をします。もともと港は良い品の集まる土地ですから、銭がじゅうぶんあって、欲しいものも豊富とあれば、商売が繁盛しないはずがございません。」
「なるほど、たしかに商家のしつらえも立派ですな。」
宇七は悪評ばかり聞いていた田沼という老中の力量を見直す気持ちになっていた。
(四)大阪堺での計画
廻船に乗り込んだ宇七たちは船倉にこもり、大阪堺に到着後の計画を立て始めた。今回の大阪行きの表向きの理由は本草の買い付けだが、裏の理由は秩父産の銅鉱がぱったりと売れなくなった理由を探ることである。
「まず、日本中の銅鉱山と取引をしている役所、銅座の帳簿を改めたいと思っております。」
新之丞が簡単に言ってのけたが、幕府の重要組織である銅座の帳簿など、部外者が見られるものなのか?
「…どのように?」
「まずはわたくしが、銅座にいる水野ご家中の者を訪ねていきます。そして中を案内してくれとごねます。」
銅座は田沼意次と水野忠友が肝いりで設立した役所だから、水野家中の者が必ずいるだろう…名案だ。
「そして銅座の中を歩き回り、頭の中に引き図を作ってまいります。」
「一度歩いてまわるぐらいで、引き図ができますか?」
「寺の修行で、毎日同じところを、同じ歩幅で歩いておりましたので、これは自信がございます。」
「なるほど、それから?」
「帳簿のある部屋まで地下道を掘ります…」
「なるほど…また掘るのですな。」
堺での滞在目的を怪しまれないように、新之丞は表向きの用事である本草の買い付けに精を出し、薬草問屋に毎日顔を出しては、無理難題をふっかけ、滞在期間を延ばすという。
「なかなか手に入らぬ珍品珍草を立て続けに所望し、最後は燕の子安貝を所望いたしましょう。」
福助がくすくすと笑う。
「竹取の姫のようですね…」
「あぁ、それなら仏の御石の鉢のほうが、新之丞どのらしい。」
宇七も調子にのってからかったが、新之丞は澄ましている。
「鉢は本草綱目に載っておりませぬ…つまり、わたくしは問屋に出入りしますので、掘るのは、ほぼほぼ宇七どのひとりということです。」
「俺にとっては薬草問屋に行くよりも簡単ですから、お安い御用です。」
「宿の床板をはがし、そこから掘り進めますので、宇七どのが掘っているあいだは、福助どのが部屋で見張りをお願いいたします。」
「はい。長旅で身体を壊したと言って、部屋で臥せっておきましょう。」
水にはからきし弱い新之丞だが、こういった計画で出す知恵は宇七ではおよびもつかない。
「その後は?」
「もし帳簿に不審な点がございましたら、密偵をいたしましょう。宇七どの、仁左衛門様がお渡しくださったあのつんつるてんの作業衣が役に立ちそうです…」
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